一年ぶりの久留米。石橋文化会館の薔薇が迎えてくれる。月曜日に帰京。(哲




2010ソスN5ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1552010

 麦秋をうすく遊んでもどりけり

                           伊藤淳子

句は自分にとって遊びかな、とふと思う。仕事と遊びに分類するなら、今もこれから先も間違いなく遊びだが、遊び、というと、ちょっと適当っぽいニュアンスが漂う。かといって、真剣な遊び、などという言い方はあまり好きではないし、と考えがまとまらない。掲出句、さらりとうすく遊んできたという作者である。麦秋、が心地よい時間を、もどりけり、がほどよい疲れを思わせる。たとえばそれが吟行旅行だとしても、ともかく何でも見ておかなくては、俳句にしなければ、などと考えず、目に映るもの、肌で感じるものを楽しみながら、時間の流れに身をまかせるような過ごし方のできる作者なのだ。やはり俳句は私にとっては、遊び、という言葉のゆとりの意味合いも含めて、一生楽しめる遊びだろう。『夏白波』(2003)所収。(今井肖子)


May 1452010

 素老人新老人やかき氷

                           村上喜代子

老人とは言えても素老人とはなかなか言えない言葉。もちろん素浪人とかけている。近所の公園は朝五時ごろから老人天国。老人に占拠されたような状態である。犬の散歩、野良猫に餌をやる人、運動をする人。運動する人はいくつかに分類できる。自分で体操する人、みんなでラジオ体操する人、走りまわる人、歩きまわる人。その中にゴミを拾っている人も見かける。女性も男性も全部老人ばかりである。町が本当に占拠されることはないのだろうか。怒りの老人が老人解放戦線を組織して立ち上がる。老人が保守だと誰が決めたのだ。老人という言葉に定義はない。自分が老人だと思えば老人であり、自分から見て老人だと思える人は自分にとっては老人である。僕は今年還暦になる。まぎれもなく老人である。季語かき氷はまことに巧みな斡旋だが、すぐ崩れるようで切ない。「俳句」(2009年9月号)所載。(今井 聖)


May 1352010

 まむしぐさ蛇口をすこし開けてをり

                           新妻 博

むし草は山野草のひとつで有毒植物と、植物図鑑に記載がある。写真を見るとすっぽり伸びた花茎には紫の文様があり、それがまむしの柄と似通っているため、この名前がつけられたらしい。毒々しく赤い実がびっしりと詰まっている様子を見てもあまり気持ちのよい植物に思えない。一説ではまむしの出るところに生えているのでこの名前がついたともあり、あまり陽の当らないうっそうとした場所に顔を出すのだろう。それにしても掲句を読んで水道の蛇口って「蛇の口」って書くんだな、と改めて気付かされた。毎日「蛇の口」から出される水で煮炊きし、顔を洗い、口を漱いでいるわけだ。銀色に光る蛇口をすこしひねる何気ない動作も「まむし草」という植物と取り合わされることで、木下闇に三角の頭をもたげて口を少し開けている毒蛇と連想がかぶって、おどろおどろしい光景が映し出される。使い慣れている言葉も定型を生かした取り合わせによって迷宮へ降りてゆく入口が開くようで、こうした句を読むたび尽きせぬ興味を感じさせられる。『立棺都市』(1995)所収。(三宅やよい)




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