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May 1652010

 蝿叩此処になければ何処にもなし

                           藤田湘子

も虫も、めったに部屋に入り込むことのないマンション生活の我が家では、一匹の蝿の音がするだけで、娘たちは大騒ぎをします。はやく窓の外に出してくれと、そのたびに頼まれますが、今やどこを探しても蝿叩きなどありません。それにしても昔は、何匹もの蝿が部屋の中を飛び回っているなんて、あたりまえの光景だったのに、いつごろから蝿の居場所はなくなってしまったのでしょうか。顔のまわりに飛び回るものがなく、わずらわしさがなくなったとは言うものの、この部屋には人間のほかにはどんな生き物もいないようにしてしまったのだなと、妙な寂しさも湧いてきます。今日の句は、一家に幾本かの蝿叩きが常備していた頃のことを詠んでいます。たしかに、蝿叩きをつるすための場所はあっても、そこにきちんとぶら下がっていることはありませんでした。前回蝿を叩いた場所の近くに、無造作に放り投げられているわけです。その、放り投げられた場所の周りに、若かった頃の家族が、ごろごろと寝そべっていた夏の日をにわかに思い出し、つらくも懐かしい気持ちなってしまいました。『現代の俳句』(2005・講談社)所載。(松下育男)


May 1552010

 麦秋をうすく遊んでもどりけり

                           伊藤淳子

句は自分にとって遊びかな、とふと思う。仕事と遊びに分類するなら、今もこれから先も間違いなく遊びだが、遊び、というと、ちょっと適当っぽいニュアンスが漂う。かといって、真剣な遊び、などという言い方はあまり好きではないし、と考えがまとまらない。掲出句、さらりとうすく遊んできたという作者である。麦秋、が心地よい時間を、もどりけり、がほどよい疲れを思わせる。たとえばそれが吟行旅行だとしても、ともかく何でも見ておかなくては、俳句にしなければ、などと考えず、目に映るもの、肌で感じるものを楽しみながら、時間の流れに身をまかせるような過ごし方のできる作者なのだ。やはり俳句は私にとっては、遊び、という言葉のゆとりの意味合いも含めて、一生楽しめる遊びだろう。『夏白波』(2003)所収。(今井肖子)


May 1452010

 素老人新老人やかき氷

                           村上喜代子

老人とは言えても素老人とはなかなか言えない言葉。もちろん素浪人とかけている。近所の公園は朝五時ごろから老人天国。老人に占拠されたような状態である。犬の散歩、野良猫に餌をやる人、運動をする人。運動する人はいくつかに分類できる。自分で体操する人、みんなでラジオ体操する人、走りまわる人、歩きまわる人。その中にゴミを拾っている人も見かける。女性も男性も全部老人ばかりである。町が本当に占拠されることはないのだろうか。怒りの老人が老人解放戦線を組織して立ち上がる。老人が保守だと誰が決めたのだ。老人という言葉に定義はない。自分が老人だと思えば老人であり、自分から見て老人だと思える人は自分にとっては老人である。僕は今年還暦になる。まぎれもなく老人である。季語かき氷はまことに巧みな斡旋だが、すぐ崩れるようで切ない。「俳句」(2009年9月号)所載。(今井 聖)




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