父がベッドから落ちて脊髄圧迫骨折。救急車で入院。今日は見舞いに。(哲




2010N519句(前日までの二句を含む)

May 1952010

 初夏(はつなつ)や坊主頭の床屋の子

                           長嶋肩甲

主頭で子供時代を過ごした昔の子は、たいてい家庭で親がバリカンで頭を刈ってくれた。私も中学までそうだった。刈ってもらっているあの時間は、子供にとって退屈で神妙なひとときだった。母が手動のバリカンで刈ってくれるのだが、時々動きが鈍ったり狂ったりして、髪の毛を喰ってしまうことがあった。「痛い!」。「我慢せい!」と言って、バリカンで頭をコツンとやられた。挙句はトラ刈りに近い仕上がりになってしまうから、文句たらたら。「我慢せい! すぐに伸びら」。さすがに高校生になると床屋へ行った。床屋の子ならば、プロである親にきれいに刈ってもらって、初夏であればクリクリ坊主頭がいっそう涼しそうに見える。初夏の風に撫でられ、いい香りさえ匂ってきそうだ。トラ刈りを我慢させられる身にとっては、じつに羨ましかった。冬の坊主頭は寒そうだが、夏は他人の頭であっても眺めていて気持ちがいい。「理髪店」や「BARBER」ではなく「床屋」と表現したことで、懐かしい子供の坊主頭を想像させてくれる。肩甲は作家・長嶋有の俳号。『夕子ちゃんの近道』で第一回「大江健三郎賞」(2006)を受賞した。若いけれど、すでに句集『月に行く』『春のお辞儀』『健康な俳句』があり、屈託のない自在な世界をつくり出している。「めざましの裏は一人でみる冬日」「初夏やつまさき立ちで布団叩く」など。『健康な俳句』(2004)所収。(八木忠栄)


May 1852010

 夏帽子研修生と書かれたる

                           杉田菜穂

年度の四月一日から一ヵ月が過ぎたこの時期、新しい環境にそろそろ慣れるか、はたまた五月病と呼ばれる暗がりに落ち込んでしまうかは、大きな分かれ道である。見回せば木々の青葉は噴き出すような勢いで茂り、ジャスミンやバラなど香りの強い花が主張し、太陽はストレートに肌を射してくる。過激な自然を味方につけ一層元気になる人もいれば、ストレスを積み重ねている人にとっては圧倒され萎縮してしまう陽気なのかもしれない。研修や実習を経てから、本格的に就業する職場はさまざまだが、どれも特定した分野での必要な知識が磨かれる期間であり、初めての経験は緊張と高揚が繰り返されていることだろう。「研修生」とあることで、多少の失敗も「まぁ、しょうがないか」で済ませてもらえることもあるが、一人前までの道のりは遠くけわしいものだ。掲句は「夏帽子」の効果で、明るさが際立ち、若々しくのびのびとした肢体が描かれた。まばゆい夏の日差しのなかで、初々しい研修生たちの声が明るく響き、生涯のなかでもっともエキサイティングな一時期が過ぎてゆく。〈好き嫌い好き嫌い好き葡萄食ぶ〉〈クリスマスツリーの電気消す係〉『夏帽子』(2010)所収。(土肥あき子)


May 1752010

 胸を打つ麦秋の波焦げ臭し

                           櫻井ハル子

年この時期に久留米(福岡県)に出かけて行く。楽しみもいろいろあるけれど、その一つは、博多久留米間の鹿児島線の車窓に果てしない麦畑が展開していることだ。ちょうど「麦秋」の候。何度見ても、惚れ惚れするくらいに美しい。そんな景色を詠んだ句は枚挙にいとまがないが、掲句は麦秋を遠望したものではなく、麦秋のただ中にある人の句である。つまり麦刈りの現場をうたっていて、実はこうした句はあまり詠まれてこなかった。麦刈りにせよ田植えにせよ、多くの句は遠望の美というのか、労働現場から完全にはなれたところで詠まれている。戦後に流行した言葉を使うと、ほとんどが「青白きインテリ」の句になってしまっている。農家の子でもあった私には、いつもそのことが不満で、ひところは麦秋だろうが田植えだろうが、汗の匂いのしない句には単純に拒絶反応を起こしたものだ。農民には、美の享受の前に生活がある。苦しい労働がある。そのことに思いを馳せることなく「きれいだなあ」だなんて、ふざけるなと思っていた。芭蕉や蕪村の句だって、そういう観点からは同じこと。遊び人の慰みごとでしかない。掲句の「胸を打つ」は文字通りに労働のさなかの実感であり、「焦げ臭し」も麦畑にかがまなければ感じられない臭いだ。最近の農作業は機械化が進んでおり、もはやこうした麦刈りの実感もなくなっているはずだけれど、鹿児島本線の車窓から見える麦秋の風景に魅せられつつも思うのは、いつもこうしたことどもである。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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