@句

May 2152010

 治水碑に抱きついてをり裸の子

                           原 拓也

ぜこの子は治水碑に抱きつくのだろうと思う人は先入観にアタマを支配されている。抱きつくには抱きつく理由があるのはもちろんだが、それを一句の中でなるほどと思わせる必要はない。治水碑という意味を優先させれば、感慨深げにその碑文に見入ったり、治水工事以前の民衆の苦しみを思ったり、それを作るにあたっての作業の苦労に思いを馳せたりするのは作品としては陳腐。もちろんそれは言わずともその思いを置いて渡り鳥なんかを飛ばしたりするのも同罪である。そこには常識はあっても「詩」はない。ようするに月並みである。現実は単純明快。その辺で泳いでいた子がふざけて治水碑に抱きつくこともあろう。現実は何だって起こり得るのだ。その意外感と現実感が新鮮。こういう句は、花鳥諷詠的に定番情緒の再現を狙っていてはできないし、言葉のバランスを計って「詩」を狙う作り方でもできない。意味を剥ぎ取られたひとつの「もの」を見つめる目、すなわち、自分の中の先入観を否定してまっさらなる「自分」を求める志向が必要である。「知」よりも「五感」を優先させる志向が。「俳句」(2008年10月号)所載。(今井 聖)




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