May 252010
そのあとの籐椅子海へ向きしまま
荒井千佐代
句集のなかで「父の死後」と前書のある作品群の一句なので、「そのあと」とは父がこの世にない現在という意であることは明白なのだが、籐椅子の存在がぽっかりと口を開けたような悲しみを言うともなく引き出し、「そのあと」がどのあとであるかの含みや余韻を深くしている。密に編まれた籐椅子は、徐々に身体のかたちに馴染み、うっすらと凹凸が刻まれる。その窪みは、そこに座っていた者の等身大の輪郭である。あるじの重みをそのままかたちに残している籐椅子は、作者にとっていつまでも海を見ている父の姿そのものなのだろう。夏の季語である籐椅子は、夏の時期に涼を得るために使用されるものだが、この籐椅子はこれよりきっと通年そのままにされることだろう。そして、たまには懐かしむようにその窪みに収まり、以前父がしていたように海に目をやり、耳を傾けたり、家族がかわるがわる身体を預けることだろう。それはもう椅子というより、父の分身であるように思えてくる。〈炎天の産着は胸に取り込みぬ〉〈十字架のイエスが踏絵ふめといふ〉『祝婚歌』(2010)所収。(土肥あき子)
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