五月もお終いですね。梅雨はなるべく短く済んでくれますように。(哲




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May 3152010

 紫陽花や蔵に住みつく少年期

                           石井康久

宅難の時代の句だろう。子供たちが大きくなってきて、家が手狭になってきた。かといって、そう簡単に建て替えたりはできない。そこでもう使わなくなっていた小さな蔵を臨時の子供部屋として使うことになった。昼間だけそこで子供らが過ごすことになったのだが、少年だった作者はその部屋が気に入って、いつしか「住みつく」ようになったのである。蔵特有の小さな窓からは、この時期になるといつも母屋との間に咲いていた紫陽花が見えたものだった。だから大人になってからも、紫陽花を見ると少年期を思い出すのである。こう私に読めるのは、同じような体験があるからだ。高校時代にやはり家が狭くなったので、父が庭にミゼットハウスなる組み立て式の部屋を作り、私たち兄弟の勉強部屋とした。そして私もまた、母屋で寝ることを止めてしまい、そこに住みついたのだった。名目は深夜までの勉強のためだったけれど、夜になるとラジオばかりを聴いていた。また、大学生になってからは、実際に蔵を改造した下宿部屋に暮らしたこともある。そのときにはじめて、自分用の勉強机を持てたことなども懐かしく思い出された。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


May 3052010

 永遠はコンクリートを混ぜる音か

                           阿部青鞋

遠もコンクリートも、どの季節に属しているとも思えませんので、この句は無季句です。永遠を定義しようとする試みは、正面から向かうのはどうも無理なようですから、とんでもないもので説明するしか方法はないようです。たとえばこれを、「永遠はなべの底か」でも「永遠はキリンの咀嚼か」でも、最後を疑問形にしてしまえば、そこそこ意味がありそうに見えます。どんなふうに言ってみたところで、永遠を理解することなど、所詮できはしないのだという人の悲しみが、含まれてしまいます。死と愛が、詩の普遍のテーマであるなら、永遠はどちらにも寄り添うことのできる都合のいいテーマであるわけです。今からずっとずっと先、さらにそれよりも遠い未来があるということを考えているだけで、人は誰しも詩人になるしかありません。それにしても、どうして永遠がコンクリートを混ぜる音なのでしょうか。見ていても、いつまでも終わらないからだと、単にそれだけの意味なのでしょうか。まあ、いろんな解釈はあると思いますが、どれが正解かなんて、永遠の前でどんな意味を持つでしょう。『俳句鑑賞450番勝負』(2007・文芸春秋)所載。(松下育男)


May 2952010

 仏壇は要らぬさくらんぼがあれば

                           小西昭夫

笑んだ小さい写真一枚に、ガラスの器のさくらんぼ。初夏の風の吹き抜ける部屋で、またこの季節が来たわね、と写真に話かけたり。と、すがすがしい風景も想像される。果物の中で、これがとにかく大好物で、という話をよく聞く。他の食べものや野菜などに比べて、季節感が濃く、その時期にしか出回らないものが多いからだろう。知人にもいろいろいて、さくらんぼや西瓜を初め、無花果や枇杷から、ぐじゅぐじゅに熟した柿に目がないの、という人までいる。年に一度その旬を心待ちにする喜びがあるので、よりいっそう好きになるのだろう。仏壇は要らぬ、という断定の頑固さと、さくらんぼへの愛しさの結びつきに、作り事でない本心が見えて、おかしみのあとちょっとしみじみしてしまう。『小西昭夫句集』(2010)所収。(今井肖子)




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