「五月晴」は梅雨晴れのこと。と、俳人が叫んでももはや届かない。(哲




2010ソスN6ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0262010

 花筒に水させば蚊の鳴き出づる

                           佐々木邦

筒は花を活ける陶製か竹製の筒であろう。ウソではなく本当に、今まさにこの鑑賞を書こうとしたタイミングで、私の左の耳元へワ〜〜ンと蚊が飛んできた。ホントです。(鳴くのは雌だけらしい)あわてて左掌で叩いたらワ〜〜ンとどこやらへ逃げた……閑話休題。花筒に花を活けようとして水を差そうとしたら、思いがけず中から蚊が鳴いて出たというのだ。ワ〜〜ンという、あのいやな「蚊の鳴くような」声に対する一瞬の驚きがある。漱石の木魚から吐き出される昼の蚊ではないけれど、花筒の暗がりに潜んでいた蚊にとっては、思いがけない災難。夏場は、とんでもないあたりから蚊がワ〜〜ンと出てくることがある。木魚からとはちがって、花筒からとはしゃれていて風雅でさえあるではないか。ユーモア作家の先駆けとしてその昔売れっ子だった邦は、鳴いて出た蚊に立ち合ってユーモアと風雅を感じ、しばし見送っていたようにさえ思われる。あわてて掌でピシャリと叩きつぶすような野暮な行動に出ることなく、鳴いて飛び去る方をしばし見送っていたのだろう。「蚊を搏つて頬やはらかく癒えしかな」(波郷)などはどことなくやさしい。邦の夏の句に「猫のゐるところは凉し段ばしご」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 0162010

 苦しむか苦しまざるか蛇の衣

                           杉原祐之

間が抱く感情の好悪は別として、蛇が伝承や神話などに取り上げられる頻度は世界でトップといえるだろう。姿かたちや生態など、もっとも人間から離れているからこそ、怖れ、また尊ばれてきたのだと思う。また、脱皮を繰り返すことから豊穣と不滅の象徴とされ、その脱ぎ捨てた皮でさえ、財布に入れておくと金運が高まると信じられている。掲句では、残された抜け殻の見事さと裏腹に、手も足もなく、口先さえも不自由であろう現実の蛇の肢体に思いを馳せつつ、背景に持つ神話性によって再生や復活の神秘をも匂わせる。以前抜け殻は、乱暴に脱いだ靴下のように裏返しになっていると聞いたことがあったが、この機会に調べてみようとGoogleで検索してみるとそのものズバリのタイトルがYouTubeでヒットした。おそるおそるクリックし、今回初めて脱皮の過程をつぶさに見た。もう一度見る勇気はないが、顔面から尻尾へと、薄くくぐもった皮膚からつやつやと輝く肢体への変貌は、肌を粟立たせながらも目を離すことができないという不思議な引力を味わった。はたして彼らはいともたやすく衣を脱ぎ捨てていたのだった。〈雲の峰近づいて来てねずみ色〉〈蜻蛉の目覚めの翅の重さかな〉『先つぽへ』(2010)所収。
蛇の脱皮映像をご覧になりたい方はこちらから(4分/音無し)。いきなり登場しますので、苦手な方はくれぐれもご注意くださいm(_ _)m(土肥あき子)


May 3152010

 紫陽花や蔵に住みつく少年期

                           石井康久

宅難の時代の句だろう。子供たちが大きくなってきて、家が手狭になってきた。かといって、そう簡単に建て替えたりはできない。そこでもう使わなくなっていた小さな蔵を臨時の子供部屋として使うことになった。昼間だけそこで子供らが過ごすことになったのだが、少年だった作者はその部屋が気に入って、いつしか「住みつく」ようになったのである。蔵特有の小さな窓からは、この時期になるといつも母屋との間に咲いていた紫陽花が見えたものだった。だから大人になってからも、紫陽花を見ると少年期を思い出すのである。こう私に読めるのは、同じような体験があるからだ。高校時代にやはり家が狭くなったので、父が庭にミゼットハウスなる組み立て式の部屋を作り、私たち兄弟の勉強部屋とした。そして私もまた、母屋で寝ることを止めてしまい、そこに住みついたのだった。名目は深夜までの勉強のためだったけれど、夜になるとラジオばかりを聴いていた。また、大学生になってからは、実際に蔵を改造した下宿部屋に暮らしたこともある。そのときにはじめて、自分用の勉強机を持てたことなども懐かしく思い出された。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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