間もなくワールドカップ開幕。少しは気になるという程度ですが。(哲




2010ソスN6ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0662010

 読まず書かぬ月日俄に夏祭

                           野沢節子

段は行かないのですが、今年は友人が朗読をするというので、5月末の日曜日に、「日本の詩祭」に行ってきました。会場に入ってまず驚いたのが、広い場内のほとんどの席がすでに埋まっており、その人たちがたぶん皆、詩人であることでした。日本にはこれほど多くの詩人がいるものかと思った後で、しかし「詩人」なるものの定義も、どこか曖昧だなと、あらためて思いもしました。わたしも、ものを書いて発表するときには、ほかにぴったりする呼び名もないので、名前のあとに(詩人)とつけられることがあります。しかし、言うまでもなく詩を書いて生活をしているわけでもなく、また、毎日毎日詩を書いているわけでもありません。では、読むほうはどうかといえば、これも、通勤電車で読む日経新聞と会社の書類以外には、まったく何も読まない日々もあり、月日はそれでも詩人を過ぎてゆくわけです。とはいうものの、心のどこかには、自分にはもっとすごい詩が書けるのではないのか、そのためにはきちんとした勉強を怠ってはいけないのだという気持ちはしっかりともっており、だからいつも焦っているわけです。焦って見上げる夕暮れの空からは、遠い祭囃子の音が風に乗って聞こえてきます。ああ、今年ももう夏祭の季節になってしまったのだなと、さらに人生に、焦りの心が増してくるのです。『俳句のたのしさ』(1976・講談社)所載。(松下育男)


June 0562010

 東雲の茜植田の濃紫

                           西やすのり

田は田植えが終わったばかりの田。この季節、少し東京を離れると車窓に植田が広がり、田いっぱいに張られた水は、空や雲や山を豊かに映している。作者は米作りに従事されており、この句は「鍬」と題した三十句の連作の中の一句。〈古草に勢ひの鍬を入れにけり〉〈末田まで水を見に行く納涼かな〉〈目を閉ぢて明日刈る稲の声を聞く〉など、淡々と叙しながら実感のこもる句が続く。掲出句、明け方田を訪れたのだろう。東は山で、その山際がかすかに赤みを帯びてくる。夜の静けさと朝の清々しさの間のほんのひととき、明け切らない雲に息づく茜色とまだ目覚めていない一面の田の深い水の濃紫。その水が、今日も光を集め風をすべらせながら早苗を育んでいくのだろう。こうして毎日、朝に夕に田を訪れて肌で季節を感じる暮らしの中から句が生まれている。『花鳥諷詠』(2010年3月号)所載。(今井肖子)


June 0462010

 耳も眼も歯も借り物の涼しさよ

                           兼谷木実子

は補聴器、眼は眼鏡、歯は入れ歯。どれも借り物の恩恵を受けている。クローンの研究も進んでいて、そのうち、肝臓も心臓も、五臓六腑が借り物で、脳まで借り物の時代がくるかも知れない。不自由であることや老化の象徴を「涼しさ」とみなすことは「俳諧」の「諧」の伝統。涼しさよの「よ」まで含めて伝統的嗜好を踏んだつくりであると言えよう。「俳句」(2008年11月号)所載。(今井 聖)




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