認知症が進むとリハビリの意欲も失せる。父の医者の至言なり。(哲




2010ソスN6ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2462010

 アロハシャツ似合へる夫の余生かな

                           木村たみ子

生を辞書で引くと「一生で(最盛期を過ぎて)残った命、生活」とある。いつからを余生と呼ぶのか、それを区切るのはあくまで本人だろうが、会社を退職し、毎日が日曜日という生活になじんでくるとこの言葉が実感として響いてくるかもしれない。現役時代はほとんどの時をネクタイと背広で過ごして、服装には無頓着な男の人も多い。退職して家にいるようになるとどんな格好をして過ごすのだろう。昔だとステテコにシャツのご隠居が夕涼みしている姿が定番として思い浮かぶが、団塊の世代はジーパンとスニーカーであちらこちら駆け回りそう。掲句のアロハシャツは夫自身の好みで選んだのか、家族からのプレゼントか。緑や赤の派手な模様の入ったアロハシャツを着こんで、籐椅子でカメラなどをいじっている夫。最後の「かな」の詠嘆にそのような静かな時間を二人で共有する喜びが表されているように思う。『水の音』(2009)所収。(三宅やよい)


June 2362010

 立札のなき花ありて梅雨の園

                           田村泰次郎

園に咲くそれぞれの花には、たいてい名前を書いた札が立ててある。薔薇園などでもうるさいほどマメに札が立てられている。プリンセス・ダイアナ、プリンセス・ミチコ……といった具合である。薔薇にかぎらず花に見覚えはあっても、名前まで詳しくない当方などにはありがたい(すぐに忘れてしまうのだけれど……)。もっともダイアナとミチコの違いなど、当方にはどうでもよろしい。梅雨どきの花園は、訪れる人も少ないだろう。そうしたなかで、なぜか立札がない花があったりする。立札のあるものはスッと見て過ぎるにしても、立札のない花には妙に気にかかって、しばし足を止めしまうことがある。掲句では、花の前に何人かかたまって覗き込んでいるご婦人方が、あれよこれよと知識をひけらかしているのかもしれない。さりげない花でも、立札があれば一人前に見えるからおかしい。雨が降っていたり曇天だったりすると、立札のないのが歯抜けのように妙に気にかかってしまったりする。何気ないこまやかな着眼にハッとさせられる句である。泰次郎は小説「肉体の悪魔」「肉体の門」などで敗戦直後にセンセーションを巻き起こした。映画にもなった。そんなことを知る人も少なくなった。泰次郎には多くの俳句がある。「故旧みなひと変りせる祭りかな」「昨日来し道失へる野分かな」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 2262010

 夏雲や赤子の口を乳あふれ

                           安部元気

雨さなかとはいえ、時折の晴れ間はまごうことなき夏の日差しになっている。掲句は、もくもくとした夏雲の形態が、赤ん坊の放出する生のエネルギーに重なり、ますますふくれあがっていくようだ。さらに生まれたての小さな口を溢れさせるほどの、ほとばしる乳を与える母の像も背景におさえ、圧倒的な健やかさを募らせている。いまさら母乳の味を覚えているはずもないが、ふいに口中になつかしい感触もわいてくるように思い、見回してみれば世の中にあふれる「ミルク味」たるものの多さに驚いた。アイスクリーム、キャンディーなどの菓子類はともかく、サイダーやカップ麺にまで出現している。これほどの多様さを見るとき、ふと生きる糧そのものであった乳の、あの白色を慕い、ねっとりとしたほの甘さを、今もなお求めているのだとも思えるのである。〈船虫や潮にながされつつ進み〉〈昼寝より覚めれば父も母もゐず〉『一座』(2010)所収。(土肥あき子)




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