午後は昔のラジオ仲間と飲み会。業界の内情が聞けるのも楽しみ。(哲




2010ソスN6ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2862010

 川甚に来れば雨やむ夏料理

                           村山古郷

の店「川甚」には、一度だけ行ったことがある。もう三十数年も前のことだが、たしか詩人の会田綱雄さんを囲む会だった。江戸期に操業した川魚料亭で、柴又帝釈天の近くにある。夏目漱石、幸田露伴、谷崎潤一郎、尾崎士郎、松本清張など数々の文人が訪れたことでも有名で、寅さん映画の第一作にも登場している。句意は説明するまでもあるまいが、いかにも夏料理にふさわしい涼風も感じられて好もしい。こういう句は、この句を俳誌「俳句」で紹介しているいさ桜子の言うように、「句は、風景・場所との取り合わせで成り立っています。風景・場所は誰でも知っている特定の所というイメージが立つ事が重要です」。が、私に言わせればその前にもうひとつ。作者その人のイメージが、もっと重要な要素になるだろう。平たく言ってしまえば、作者その人のイメージと店の格とが釣り合っていなければならない。私のようにたった一度だけ行ったことがある程度では、まったく釣り合いがとれないから、句にはならない。広い意味での文人俳句にはこの要素が多く、漱石だから露伴だからはじめて句として読める作品は枚挙にいとまがない。そう考えると、この句には羨望の念と同じくらいに反発心も覚えてしまう。「俳句」(2010年7月号)所載。(清水哲男)


June 2762010

 さくらんぼ笑で補ふ語学力

                           橋本美代子

は「えみ」と読みます。季語はさくらんぼ。いったいよくもこれほどかわいらしいものが世の中にあるものかと思うほどに、色艶も、大きさも、手と手をつなぎあっているその姿も、完璧な果物です。一生こんなものを眺めていられるなら、さぞや楽しい人生だろうと思うわけですが、この句はそれほどに楽な状況ではなくて、おそらく外人との会話に、困り果てている姿を詠っています。これで文法は正しいだろうか、とか、3単現のエスを忘れてしまった、とか、言いたい単語は頭の中にその姿を現しているものの、どうしてもその言葉が出てこないとか、困りきった挙句に笑ってごまかしています。35年以上も外資系の会社に勤めて、そのほとんどの期間において外人の上司の下で働いていた私としては、実に、人ごととは思えない句です。ところで、さくらんぼと、この状況とはどんな関係があるのでしょうか。困り果てた挙句に浮かび出た素直な笑顔が、弱さをありのままに出していて、なんとも無防備で無垢なかわいらしさをたたえていた、それゆえのさくらんぼなのでしょうか。『俳句のたのしさ』(1976・講談社)所載。(松下育男)


June 2662010

 四葩咲きよべの涙を忘れしむ

                           文挾夫佐恵

勤路の紫陽花、さみどりの蕾が日に日に色を見せていまちょうど雨に似合う青紫。四葩(よひら)を紫陽花の意味で使うのは、「特に俳句でいう。」(広辞苑)とのことだ。小さな花を豪華な四片の萼が囲んでいる。昨日の帰り道ご近所で、庭の紫陽花が道路まではみ出したのを一気に刈っていた。まだたくさん花がついていて、通りがかりの私達にも「よかったら持っていって」と。一輪いただいて帰りガラスの器に挿した。大きい毬がかたまって咲く割には、その深く濡れた水色といい、咲く時期といい、さびしい印象のあった紫陽花だけれど、こうして一輪と向き合ってしみじみ見ていると可憐でかわいらしい。涙色の紫陽花と見つめ合いながら、少し微笑んでいる作者の顔が見えるような気がするのだった。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)




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