@句

July 0272010

 魚屋の奥に先代昼寝せり

                           鈴木鷹夫

よお、大将いる?」「奥で寝てますよ」「いい身分だね、昼間っから寝てるなんて」「昼間っから魚屋冷やかしてる方もいいご身分じゃないんですか」「何言ってんだ、俺は客だよ。魚買いに来てんだ」「ありがとうございます。今日はいい鰺入ってるよ」先代が昼寝しているのがわかったのは、二代目に尋ねたからだ。それで日頃の付き合いがわかる。他人が昼寝している時間に魚屋に行った方も昼間から暇なのだ。ゆったりした時間が流れる。これを晩年と呼ぶならこんな晩年がいいな。「俳句年鑑2010年版」(2009)所載。(今井 聖)


July 0972010

 あぢさゐの毬の中なる隠れ毬

                           鷹羽狩行

ズムが明快で外の景の印象鮮明。機智があるけれど実感から入るために知的操作が浮き立たない。読み下して速度感がある。そしてどこか静謐な風景。抹香臭い神社仏閣などを源泉とするいわゆる俳句的情緒に依らない。内部の鬱を匂わせる戦後現代詩のモダンとは一線を画す。俳諧風流の可笑しみにも行かない。山口誓子が拓いて作者に受け継がれているこういう世界を今の流行には無い傾向として僕は見ている。あぢさゐの毬の中にある毬はあぢさゐの花の色と形から来る比喩として読めるが、同時にあぢさゐの咲いている茂みの中に置き忘れられた見えない毬を思っている内容にも思える。比喩としての毬と実際の毬が紫陽花の中で動いて重なる。『十六夜』(2010)所収。(今井 聖)


July 1672010

 白団扇夜の奥より怒濤かな

                           長谷川櫂

の白団扇。白だけが鮮明に浮き上がる。その白から波の穂がイメージされ、波の穂はしだいにふくらんで怒濤となって打ち寄せる。団扇の白が怒濤と化すのだ。何が何に化すかというところが作者の嗜好。この両者の素材が作風を決する。白鷺が蝶と化すのが山口誓子。尿瓶が白鳥と化すのが秋元不死男、自分がおぼろ夜のかたまりと化すのが加藤楸邨。長谷川櫂の嗜好は自ずから明らかである。『富士』(2009)所収。(今井 聖)


July 2372010

 一雲かぶさる真夏の浜辺に村人と

                           牧ひでを

読黒田清輝の画のような平和な漁村の風景が浮ぶが、前書きを読むと様相は一変する。「広島へ四〇キロというふるさとにて原爆を受けし朝」。雲はキノコ雲であった。平和な時間を刻んでいるとしか思えない風景が実は凄惨な事実を孕んでいるというのは、まさしく近代の恐怖そのものだろう。牧ひでをさんは70年代の「寒雷」東京句会には必ず顔が見えた。楸邨の隣に座って言葉を区切りながらゆっくりと話す実に温厚な白髪の紳士であった。怒るように叫ぶように自己を表現する俳人は「寒雷」に多かったが、ひでをさんのように柔らかな言葉の語り口を持った人は稀であった。だからこそ、この句に込められた驚きと怒りの深さを思うのである。『杭打って』(1970)所収。(今井 聖)


July 3072010

 籐椅子と成りおほせたる家人なり

                           鈴木章和

りおほせたると言っているが、家人すなわち妻が亡くなられたわけではなさそうだ。籐椅子になってしまう妻にはユーモアが漂うからだ。なぜ籐椅子になったのか。それはいつも籐椅子に横たわっていたために妻の体が籐椅子と一体化してしまったのだ。いつもビールを飲んでいるためにビヤ樽になってしまった夫と家事を怠けて籐椅子になってしまった妻。その横を豚児(とんじ)すなわち豚になってしまった愚かな息子が通る。謙譲の表現は面白い。『夏の庭』(2007)所収。(今井 聖)


August 0682010

 山羊の怪我たのまれ診るや葉鶏頭

                           三嶋隆英

診のあと、「先生、うちの山羊が岩場で肢切りよったんでちょっと診てごしないや」「おいおい、俺は人は診るけんど、山羊は診たことねえな」「同じ生き物でしょうが。ちょこちょこっと頼みますけん」出雲弁ならこんなところか。作者は医師。地方だとこんなこともあるのだろう。僕の場合はちょうど逆、獣医師だった父にお尻にペニシリンを打ってもらった。肺浸潤の自宅療養中にどうしても医者に注射されるのが嫌だと暴れたせいだ。あとで父は、あれは危なかったなと反省しきり。僕は豚用のビタミン剤も舐めたことがある。自慢にはならないけど。『自註現代俳句シリーズ・三嶋隆英集』(1996)所収。(今井 聖)


August 1382010

 懸巣飛び老いし伊昔紅踊るなり

                           水原秋桜子

昔紅(いせきこう)は「馬酔木」の俳人で「雁坂」主宰。兜太の父。京都府立医専出の医師で独協中学では秋桜子と同級。地元秩父で廃れかけていた秩父音頭を埼玉を代表する民謡として再生復活させたのも伊昔紅の功績である。この俳人のエッセー『雁坂随想』が長男兜太や二男千侍(せんじ)らの手によって刊行されているが、これがものすごい代物。あまりの破天荒に抱腹絶倒というより唖然として空いた口がふさがらない。例えば「芳草記」と題した文章は、野糞について自分の体験談が延々と語られる。「有名な《夏草やつはものどもが夢のあと》の夏草の代りに《夏クソ》を置き換へてみても結構筋が通る。》」この調子である。他にエロ話も随所に出てくる。それらきわどい話が混然として、全体としては秩父の風土と人間に対する愛情に満ちた一巻となっている。まさに兜太の原型を見る思い。この句、秋桜子の同級生をみつめる眼が温かい。秩父山中を飛ぶ鳥や秩父音頭も何気なく盛られている。こういうのを本物の挨拶句というのだろう。『雁坂随想』(1994)所収。(今井 聖)


August 2082010

 朝顔を数えきれずに 立ち去りぬ

                           伊丹三樹彦

寿記念出版と帯に記された24番目の句集に所収の作品。作者は昭和12年に日野草城に師事し、31年に草城逝去のあと「青玄」の後継主宰になり、それ以降、一句中の随意の箇所に一マスの空きを入れる「分かち書き」を提唱実践して今日に至る。その普及のために全国行脚をしていた40年頃、鳥取県米子市を作者が訪れた折、当時米子にいた僕は歓迎句会に出席したのを覚えている。高校生だった僕は初めて「中央俳人」というのを目にしたのだった。爾来一貫して「分かち書き」を実践。現代の日常の中にも俳句のリリシズムが存することを示してきた功績は大きい。この句、「立ち去りぬ」が現実であって象徴性も持つ。どこか禅問答のような趣きも感じられるのである。『続続知見』(2010)所収。(今井 聖)


August 2782010

 ヴァギナの中の龍旱星

                           高野ムツオ

にはドラゴンとルビがふってある。肉体の器官の呼称でヴァギナの中に龍またはドラゴンの名が入る場所、またはそれと喩えられる箇所があるかどうかの知識が僕にないので、おそらくこれは作者の想念であろうと判断する。女体は人間を生み出す源として原初の時代から崇められてきた。作者の思念は、自らの立つ場所つまり大地と、自らを産んだ女体やヴァギナを表現の原点として意思的に捉えている。同じ句集にある「月光に稲穂は一穂ずつ女体」「祖母の陰百年経てば百日紅」(陰はほと、すなわち女陰)なども同様の思念の上にある。膣の中の深遠なる闇の中に一匹の龍が棲んでいる。すなわち命の発生をつかさどる神のごときである。旱星はみちのくの荒涼たる風土を象徴している。すなわちこれも神のごとし。身体の内側と外側に神が棲んでいて両者と交流しながら「私」が存在する。新興俳句の「モダン」が現代詩の「モダン」への憧憬から出発し、日本の現代詩の「モダン」が西洋詩の西洋的な風情に根を置いたところから出発したことを思えば、佐藤鬼房さんを経て作者につながる「モダン」がそういう「反省」の上に立って日本的土着のアニミズムと同化しようとしたことは俳句にとって的確な選択であったように僕には思える。『雲雀の血』(1996)所収。(今井 聖)


September 0392010

 鰯雲レーニンの国なくなりぬ

                           原田 喬

ルリンの壁が崩れて米ソ二大国による世界支配が終りアメリカの一国世界制覇が始まった。勝負がついたのである。史実の歴史的評価は勝者の側に味方するから正義はアメリカに集中する。戦争映画やスパイもので残虐の限りを尽くしたあげく負けるのはいつもドイツと日本そしてソ連。作者は大正二年生まれ。敗戦後長くシベリアに抑留された。横浜高商時代にマルクスを学び左翼運動に関わる。抑留時代は数千人の俘虜の代表としてソ連側との折衝に当たった。共産主義国家に抑留されたマルキストというのはなんとも皮肉な印象がある。そういえば天安門前に毛沢東の温容の額が飾ってあるが、文化大革命も紅衛兵も歴史的評価は今は最悪。主導者である毛主席だけを称揚するのはまさに政策。逆に言えばそれらすべての評価は将来覆る可能性もあるということだ。『長流』(1999)所収。(今井 聖)


September 1092010

 けさ秋やおこりの落ちたやうな空

                           小林一茶

こりはマラリア熱の類。間欠的に高熱が襲う。けさ秋は「今朝の秋」、秋の確かな気配をいう。暦の上の立秋なぞものかわ今年のように暑いとまさにおこりを思わせる。横浜に住んでいて9月7日に到りひさしぶりに雨が降ったが秋の雨というような季語の本意には遠く、むしろ喜雨という言葉さえ浮んだのだった。観測史上の記録を塗りかえるほどの暑さを思うとおそらく一茶の時代よりも4、5度は現在の方が高温なのではないか。おこりよりももっと激しい痙攣のような残暑がまだまだ続くらしい。『八番日記』(1819)所収。(今井 聖)


September 1792010

 秋の夜のラジオの長き黙つづく

                           山口誓子

んな句を昭和19年に作ることができた誓子の頭の中はどういうことになっていたのか。型の上のホトトギス調はない。ここには文語か口語かの識別の表現はない。季語はあるが秋の夜の定番情緒がテーマに置かれているわけではない。いわゆる従来の俳句的情緒も皆無。それでいて昭和初期の現代詩を模倣したモダニズムもない。ベレー帽などかぶったモボ、モガのダンディズムが見られない。ここで見出されている「詩」は完全に誓子が初めて俳句にもたらしたものだ。新しいポエジーなのに難解さは無い。ああ、こんなことが俳句で言えたのだと、言われてみると簡単なことのように思える。誰も出来なかった「簡単」なこと。まさしく当時の俳句の最前線に立った誓子のポエジーは今でも最前線のままだ。『激浪』(1944)所収。(今井 聖)


September 2492010

 夢見ざる眠りまつくら神の旅

                           小川軽舟

暦10月神々が出雲大社に集まるために旅をすることを「神の旅」というのだが、どうも趣味的というか、極めて特殊な季語に思えて僕自身は用いたことはない。神道の熱心な信者でもないかぎりそんなことをつくづくとは思わないだろうから、これはキリスト教の聖何々祭というのと同様だろうというと、そんなことはない、日本の民衆の歴史の中に神事は今日まで具体的に生きていると反論されることもある。しかしである。俳句が神社仏閣を詠い、特殊な俳句的情緒を演出するために用いられてきたというのも事実である。どうしても「神の旅」を詠いたければ、方法の選択は二つ考えられる。ひとつは正攻法。「神の旅」の本意を十分に探った上で、そこに自分の独自の感覚や理解を付加することだ。もう一つは「神」の「旅」というふうに季語を分解してふつうの言葉として使うこと。これはどんな神のどんな旅でもいいということ。しかし、この場合、神の旅は厳密に言えば季語にならないだろう。僕はこの句は後者だと思う。作者の思念の中にある神は日本の神事の中の神に限定されない。夢を見ないのも眠りがまっくらだったと「思う」のも作者自身の思い。そういう意味ではこの「神」は作者自身にも思えてくる。我等人間一人一人が実は神なのだという認識にも通じてくる。『シリーズ自句自解1ベスト100小川軽舟』(2010)所収。(今井 聖)


October 01102010

 匂はねばもう木犀を忘れたる

                           金田咲子

ういうのを実存傾向とでもいおうか。僕など加藤楸邨の体臭を感じてしまうがそれは個人的なこと。人は五感によって生を体感して生きている。ここにあるのは嗅覚の強調。木犀は見えてはいるのだが、匂わない限りは見えてはいても見られることはない。存在に気づかれることはないのだ。俳句は往々にしてここから箴言に入る。たとえば、個性を発揮していないと忘れられがちであるというふうに。そうすると木犀自体のあの甘いナマの匂いの実感が薄れてしまう。言葉通りまず実感を十分に味読してから箴言でもどこへでも飛べばいい。その順序が大切。『季別季語辞典』(2002)所載。(今井 聖)


October 08102010

 我を捨て遊ぶ看護婦秋日かな

                           杉田久女

性看護士への悪口。「芋の如肥えて血うすき汝かな」同時期にこんな句もある。僕の友人だった安土多架志は長く病んで37歳で夭折したが、神学校出で気遣いのある優しい彼でさえ、末期の病床で嫌な看護婦がいるらしかった。その看護婦が来るとあからさまに嫌な顔をした。病院という閉鎖的な状況に置かれた人の気持ちを思えばこういう述懐も理解できる気がする。同じように長く病んだ三好潤子には「看護婦の青き底意地梅雨の夜」ある。それにつけても看護の現場に生きる人は大変だ。閉鎖的空間に居ることを余儀なくさせられた病者の気持ちに真向かう職業の難しさ。俳句は共感というものを設定し、それに適合するように自己を嵌め込むのではなくて、まず、自分の思うところを表現してみるということをこういう俳句が示唆してくれる。「詩」としての成否はその次のこと。『杉田久女句集』(1951)所載。(今井 聖)


October 15102010

 攫はれるほどの子ならず七五三

                           亀田虎童子

はれるという表現は、歴史的仮名遣いであって現代文法。意識的に口語調を用いたため、こういう折衷の組合わせを採用したのだろう。攫われるほどの子ではないというのは自分の子に対する謙遜だ。学校という現場にいるとだんだん自分の子に対する謙遜が減ってきているのを実感する。自分の子の利益だけを要求するモンスターペアレントと呼ばれる親たちは年々増えてきている。自分のこと身内のことはどんなに謙遜してもいい気がする。愚生、愚息、愚妻といって、ああそうですか愚かな方なんですねと思う人はいない。むしろ逆の印象もある。この子、きっと優秀な子に違いない。『季別季語辞典』(2002)所載。(今井 聖)


October 22102010

 不思議なり生れた家で今日の月

                           小林一茶

泊四十年と前書あり。木と紙で出来た建物でも数百年は持つ。神社仏閣のみならず民家でもそのくらいの歴史ある建物は日本でも珍しくないのだろうが、映像でヨーロッパの街などで千年以上前の建物があらわれてそこにまだ人が住んでいるのを見ると時間というものの不思議さが思われる。僕自身も子供のころから各地を転々としたので、ときにはかつて住んでいた場所を訪ねてみたりするのだが、生家はもとよりおおかたはまったく痕跡すらないくらいに変化している。その中で小学生の頃住んだ鳥取市の家に行ってみたとき、そこがほぼそのまま残って人が住んでいたのには驚いた。家の前に立って間取りや階段の位置などを思い起してみた。二階から見えた大きな月の記憶なども。まだ妹は生まれてなくて三人暮し。その父も母ももうこの世にいない。『一茶秀句』(1964)所載。(今井 聖)


October 29102010

 狩の犬魔王の森を出できたる

                           依田明倫

王は仏教でいう天魔か。シューベルトの歌曲の名か。あるいは悪魔の王という字義どおりか。狩が出てくるから歌曲にある洋風の風景が根幹にあるのか。僕など森と聞くだけで日本的な風景とは異質なものを感じる。鎮守の森だってあるのに。日本にふさわしいのは林だろう。森と林では木が一本違う。作者は北海道在住だからこんなスケールの大きな自然が詠めるのだろう。魔王の森のスケールも見てみたいが、地平線も見たことがない。砂漠も見たことがない。いつか見てみたい。「俳句朝日」2003年10月号所載。(今井 聖)


November 05112010

 龍の玉独りよがりは生き生きと

                           瀧澤宏司

の玉のあの小さな美しい紫の玉に独りよがりの生き方を喩えている。或いは龍の玉で深い切れを想定するなら、龍の玉の前で、そこにいる「私」や人間の独りよがりの生き方を思っている。どちらにしてもここには独りよがりということに対する肯定がある。俳句に自分にしか感じ得ない、自分にしか見えない何事かを表現するという態度こそ表現者の態度だというと、時に、私はそこまで俳句に期待しませんという反応が返ってくる。俳句は誰のものでもないのだからいろいろな考え方があっていい。みんなが感じたのと同じことを感じるという安堵感を表現したいひとには類型感など取るに足らぬ問題だろう。自分だけのものを得ようとする創作は荒野に独り踏み出すようなものでそこに歓喜も絶望も存する。この句の作者はその両者を知ってしまった人だ。『諠(よしみ)』(2010)所収。(今井 聖)


November 12112010

 墓碑銘を市民酒場にかつぎこむ

                           佐藤鬼房

季の句。昭和二十六年刊行の句集に収録の作品だから、まだまだ戦後の混沌と新しい社会への希望が渦巻いていた頃。墓碑銘を市民酒場にかつぎこむイメージは、市民革命への希求がロシア革命への憧憬を根っこに持っていた証だ。強くやさしい正義の赤軍と悪の権化の独裁との闘い。この頃の歌声喫茶で唄われたロシア民謡。赤提灯を市民酒場と呼び、卒塔婆を墓碑銘と呼ぶモダニズムの中に作者の青春性も存した。60年を経て、プロレタリア独裁も搾取も死語となった今どういう理想を僕らは描くのか。どういうお手本を僕らは掲げるのか。或いはそんなものは無いと言い放つのか。『名もなき日夜』(1951)所収。(今井 聖)


November 19112010

 冬の日と余生の息とさしちがふ

                           斎藤 玄

日がこちらに向って差してくる。こちらの余生の息を向こう側に向って吐く。冬日と息が交差する。真剣な冬日との対峙がここにある。はかない人の生と、太陽がある限りの冬日の永遠性が序の口と白鵬のように激突する。永遠という巨人に対峙して勝てるわけもない。しかしそのときその瞬間にそこに存在したという実感が得たいからさしちがえるのだ。他ジャンルと比べたとき俳句に誇りがもてるのはこういう句に出会ったときだ。まさに捨身の一句。『雁道』(1979)所収。(今井 聖)


November 26112010

 冬の鹿に赤き包を見せてゆく

                           長谷川かな女

覚の句。冬から連想されるモノクロのイメージに実際の色である赤を合わせた。つまり白と赤の対照である。食いしん坊の鹿の興味を引くような包みをみせるという「意味」ももちろん内容としてのテーマだが、それ以上に色調に対するセンスを感じさせる。70年以上も前の句なのに古さを感じさせないのは俳諧風流や花鳥諷詠的情緒といったツボに執心することなく目の前の「日常」を写し取ったからだ。そのときその瞬間の「現実」こそが普遍に到る入口である。『雨月』(1939)所収。(今井 聖)


December 03122010

 風の彼方直視十里の寒暮あり

                           飯田龍太

は飯田龍太を花鳥諷詠の俳人だと思ったことがない。守旧派とか伝統派という範疇で考えたこともない。なぜだろうと思う。龍太は蛇笏の子で弟子で、蛇笏は虚子の高弟であったわけだから「ホトトギス」の主唱したところに直結していることに疑いはない。それなのにと思う。その理由を考えてみたらひとつの結論らしきものが浮んだ。龍太作品から僕は強く「個」を感じるせいだ。例えば龍太は自然を詠み風土を詠んだがそれは俳句が花鳥風月を詠むものだという理念に沿って詠んだわけではないように見える。龍太が仮に都会暮しをしていたら都市を詠んだだろうと僕は思う。仮の話は乱暴かもしれないが。龍太は山川草木を詠んだのではなく「日常」を詠んだのだ。それから文体が柔軟な点。龍太作品にはさまざまのオリジナルな文体が見られる。この句も上句は字余り。花鳥諷詠的情緒への信奉ではなく鯛焼きの鋳型のような音律重視のパターンでもなくて、まず「私」を凝視するという態度。それは「俳句は無名がいい」という龍太の発言とは矛盾しない。無名であらんとする「意思」こそが龍太の「私」を強調するからだ。『春の道』(1971)所収。(今井 聖)


December 10122010

 時を違へてみな逝きましぬ今日は雪

                           中村草田男

つ生まれようと生ある者は例外なく死ぬ。過去から果てしもなく生まれたら必ず死んで今日に至る。そして今日空から雪が降りてくる。限りない死者のように。草田男しか出来ない句。生と死と永遠を見ている。「人間探求派」としてよく比較される草田男と加藤楸邨の違いを考えてみると、作品の中に一貫して流れる強靭なひとつの思想が草田男には感じられるのに対して楸邨は一句一句いつも白紙から出発する。型の確立や技術の熟達を楸邨は意識的に嫌った。それはほんとうに言いたいことがなくても、ほど良い季語の斡旋や取り合わせで作品が作れてしまうことの怖さを言っているのだ。草田男はどの句も確信的思想の土台の上に置かれている。観念が土台にある場合は通常は解説的になり、啓蒙的色彩が濃くなる。草田男は季節感を日本的なものの在り処として捉えて生々しい把握をこころがけている。だから観念が浮き立つことがない。この句で言えば「今日は雪」。限りなく空から降りてくる雪片に限りない死者を重ねて見ている。この生々しい実感的把握は草田男、楸邨に共通する部分である。『大虚鳥』(2003)所収。(今井 聖)


December 17122010

 腹の立つ人にはマスクかけて逢ふ

                           岡本 眸

句の中の季語の扱いが従来的な季節感を踏襲しているか、そうだとすれば、その中にどう作者の色が付加されているかいないか、或いは、季語を季節感と切り離して用いているか、ならば季節感がないのに季語を用いるところに伝統詩型の要件に対する作者の理解や工夫がどう生かされているか。そういう点も俳句評価の一角度だと僕は思うのだが、例えばハナから無季肯定の評者にはこういう角度は評価の外なのであろう。この句のマスクには冬期の季節感はありや。顔を隠すという意味においては、例えばコンビニ強盗の目出し帽と同じではないだろうか。その用途は四季を問わない。冬季の風邪を予防し自らの菌の飛散を防ぐというマスクの本意をどう「自分の事情」に引きつけてこなすか、そこに季語必須派の工夫、すなわち真の実力が見えてくる。新潮文庫『新改訂版俳諧歳時記』(1983)所載。(今井 聖)


December 24122010

 蛇の肉わかちて二寸なおくねる

                           秋山牧車

車さんは大本営陸軍情報参謀。大将山下奉文指揮下のフィリピン方面軍に終戦一年前に派遣されマニラ山中にて米軍に抗戦のあと終戦で投降。捕虜となる。この句の真骨頂は「二寸なおくねる」。銃後において戦火の前線を想像で描いた作品はいわゆる「戦火想望俳句」とよばれるが、それらは戦争の悲惨や前線の様子が常識と類型的先入観の域を出ない。体験していない事柄には事実に伴う夾雑物が入らない。表現が扁平になるのである。実はその夾雑物こそがリアルの根源。では俳句はフィクションではだめなのか。だめだとはいわないが、想像だけでこの夾雑物を出せるかどうか。この句のテーマが飢えの果てに蛇を食うことだとすると、そこまでは想望俳句でも詠める。問題はそのあと。「二寸なおくねる」は体験したものにしか詠めない。倫理的な正義やいわゆるそれらしい「想望」にまどわされてはならない。俳句の力はこういう「細部」にこそ宿る。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(今井 聖)


December 31122010

 白鳥の来る沼ひとつ那須野にも

                           黒田杏子

者は1944年に戦火を逃れて東京から栃木に疎開。以後高校卒業までを当地で過ごす。那須野という地名に格別の個人的な思いがあることがわかる。シベリアから飛来して冬を越す白鳥への思いが幼年期から少女期までの「故郷」に寄せる郷愁と重なる。個人的な思いに根ざした言葉はどうしてこんなに強靭なのか。言霊のはたらきとでもいうべき。『日光月光』(2010)所収。(今井 聖)




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