ム子句

July 0372010

 凌霄花けはしきまでに空青し

                           坂口裕子

霄花(のうぜんか)、ノウゼンカズラは一日花だが花の数が多いからか、いつもたくさん咲いてたくさん散っている気がする。百日紅や夾竹桃のピンクがかった赤は、強い日差しと乾いた暑苦しさを思わせるが、黄みがかった朱色の凌霄花にはなんとなく濡れた印象がある。梅雨のイメージが重なるからか、花が大きく柔らかくぼたぼた散ってしまうからか。そんな凌霄花の朱色と夏空の青と光る雲の白がきっぱりと鮮明な掲出句。凌霄花が咲き乱れているなんとも言いがたい様が、けはしきまでに、という表現を呼び起こしたのだろうか。それにしてもこんな夏空はもう少し先だな、と思いながら、七月の声を聞くとどこかわくわくして、真夏の句に惹かれてしまうのだった。俳誌「花鳥来」(2010年夏号)所載。(今井肖子)


July 1072010

 まくなぎを抜け出して来て一人酒

                           星野半酔

号から推察してもお酒が嫌いではない作者だろう。〈荒塩があれば事たる霰酒〉〈ささ塩を振りて一人の小鰺かな〉などとも詠まれているので、お酒は好きなものを好きな時にじっくり一人で楽しむのを是とするタイプ。会話や酔うことを目的に飲むのではなく、お酒そのものが好きなのだ。まくなぎ、めまとひ。糠蛾とはよく言ったものだと思う。ただでさえ蒸し暑いのにともかくまとわりつき、立ち止まれば不思議と止まり、うっとおしいことこの上ない。そんなまくなぎを本当に抜けてきたのかもしれないが、何かをまくなぎになぞらえているのだとすれば、それはただの人混みなのか酒宴の喧噪か。後者だとすると、それなら大勢での酒席には行かなければいいのだが、なかなかそうもいかないし逆に、やれやれ、とその後じっくり飲む一人酒はことさらしみるのだろう。お目にかかってみたかったな、と思わせる遺句集『秋の虹』(2009)所収。(今井肖子)


July 1772010

 めつむれば炎の見ゆる滝浄土

                           角川春樹

の向こうに見える炎のようなものを描きたい、とは徳岡神泉画伯の言葉だったか。その炎は明るく燃えているというよりむしろ仄暗くゆらめいて、目を閉じればなお強く迫ってくるのだろう。句の前後から察して、この滝は那智の滝。〈夜も蒼き天をつらぬく瀑布あり〉〈はればれと滝は暮れゆく音を持つ〉〈銀漢のまつしぐらなり補陀落寺〉など、一度はこの目で那智の滝を観たい、とあらためて強く思った。ことに、夜の滝。その音と匂いに包まれているうち、滝の水が天から落ちているのか、天に向かって駆け上っているのか、自分がどこにいるのか、どこへ行くのか・・・確かなものは何ひとつ無くなっていく気がする。信ずるものにとって観音浄土は、現世よりよほど確かなものなのだろう。『夢殿』(1988)所収。(今井肖子)


July 2472010

 炎天の石を叩けば鉄の音

                           吉年虹二

天、見るからに熱くて暑い言葉だ。酷暑の日中の空やその天気をいう、ということで、空を眺めてみる。連日まさに猛暑だが、あらためて見ると炎天は、その中心に太陽がぎらぎら溶け出して、全体が白い光に覆われている。外に出て庭に敷いてある白い玉砂利にふれてみると、強い日差しを受けながらさほど熱くはないけれど、その横の金属のフェンスは焼けそうだ。この句は、実際石を叩いたのかどうか定かではないが、本来どこかひんやりしたイメージのある石も、炎天下で叩くと、鉄のような決して澄んで美しいとはいえない金属音がしたのだろうか。鉄の重さや、いつか見た溶鉱炉のどろどろとした炎色が思われて、ますます暑くなってくる。『狐火』(2007)所収。(今井肖子)


July 3172010

 扇風機人形劇の幕を吹く

                           牧野春駒

が家の扇風機は東芝製、購入してから四十年近く経つ。高校入学と同時に上京した夫の四畳半一間の下宿で、それこそ〈扇風機まはり熱風吹き起る〉(高濱虚子)という状態だったというが、強烈な西日の当たる部屋で彼がなんとか夏を乗り切れたのは、この扇風機のおかげだったとか。名前もある、ローマ字で「Asagao」。ややぎこちなく首を振りながら、今年も健在だ。今、首を振る、と書いたが扇風機を見ていると、一生懸命風を送る姿は健気であり、その丸顔に愛着がわく。この句の扇風機も思いきり頑張ってはいるのだが、観客に涼風を送るまでには至っていないのかもしれない。そんな扇風機一台。学校の講堂に集まって、夏休みの開放感にひたりながら、人形劇を楽しんでいる子供達の姿が見える。『青丹』(1984)所収。(今井肖子)


August 0782010

 みんみんを仰げる人の背中かな

                           酒井土子

らしい夏がないまま立秋を迎えた昨年と違い、今年はいやというほど真夏を実感。まだまだ暑い東京だけれど、八月に入ってからは朝から空がすっきり青い。そこに、ほわっと軽そうな雲の群が静かに流れて行くのを、ここ数日夏期講習の合間に9階の教室の窓から眺めている。空から少しづつ秋へ動いているのかもしれない。勤め先のある千代田区は、みんみん蝉が目立って多い。同じ東京でも家の近くは、にいにい蝉と油蝉が主流。時に耳鳴りのようにべったり聞こえるそれらの蝉と違い、みんみん蝉は一匹が主張して鳴くので、蝉の声に立ち止まって思わず木を見上げる、というのもみんみん蝉だから。緑蔭に立つその人の背中を少し離れて見ている作者。そこに同じ郷愁が通い合っているようにも感じられる。『神送り』(1983)所収。(今井肖子)


August 1482010

 魚減りし海へ花火を打ちに打つ

                           沢木欣一

の句は、春陽堂の俳句文庫『沢木欣一』(1991)に、写真と共に掲載されている。彼方にうすく富士の影を置き、切り立った断崖に波が打ち寄せるモノクロームの写真、おそらく伊豆の西海岸だろう。伊豆の花火というと、熱海の海上花火大会。特に目立った演出はないのだが、広い熱海湾ならではの、どーんとお腹に響く単純な打ち上げ花火を、本当にこれでもかというほど連発するその素朴な迫力が好もしい。まさに、打ちに打つ、なのだが、こう詠まれると、そのひたすらな音と光が果てた後、どこまでも続く暗い海の、寂寥感を越えた静けさが思われる。盆行事に通じるという花火、鎮魂の意もこめられているというが、魚の減った海はまた多くの御霊の眠る海でもある。(今井肖子)


August 2182010

 白萩の一叢号泣の代り

                           恩田侑布子

元の『新日本大歳時記』(1999・講談社)の「萩」の項に、「日本人の自然観には、見る側の感情を仮託するものが、色濃く投影している」(高橋治)とある。そして、萩は多くの詩人たちに様々な感情を仮託されるものとして愛されてきた、とも。この作者の同じ句集に〈どこからか来てひとりづつ萩あかり〉という句があるが、揺れ咲いて散りこぼれる萩の風情を感じさせる一句と思う。それに比べて掲出句の、号泣、には驚かされ、大声を上げて泣くほどの悲しみがあったのか、と思ったが、だんだんそうではない気がしてきた。あふれるように光る一叢の白萩と対峙した作者は、一瞬にして白萩の存在感をつかみ取る。それは、感情の仮託、を越えて、まるで白萩とひとつになってしまったかのようだ。この号泣には、喜怒哀楽とは別のほとばしりが感じられる。原句は一叢(ひとむら)にルビ。『空塵秘抄』(2008)所収。(今井肖子)


August 2882010

 ひんやりと肌に知りけり島の秋

                           近藤みどり

さに疲れた身には、見た目も音もほっとする言葉、ひんやり。この句は、『ハワイ歳時記 元山玉萩編』(1970・博文堂)にある。海風にいち早く秋を感じるその肌は、ほぼ一年中風と太陽に晒されているわけで、ふと頬や首筋にその気配を感じるというのではなく、全身で秋を知るのだろう。今月半ば、ハワイのマウイ島で、マウイ在住歴2年から50年までの方々と句座を囲む機会に恵まれた。意外に涼しかったホノルルから飛行機で30分、空港に降り立った途端、全身を包んだ風はまぎれもなく秋の匂いがした。「ユーカリ林ももう秋です」「このところ海の色が変わってきました」など、皆さん四季を感じつつ、大きな自然と故郷の言葉を大切に詠んでおられたのが印象深い。表紙に「Hawaii Poem Calendar」とも書かれている島の歳時記、一年中空が美しく毎晩のように星が降るからだろう、「天高し」「流れ星」は載っていない。(今井肖子)


September 0492010

 豊年や切手をのせて舌甘し

                           秋元不死男

こまで猛暑だと稲にもよくないのかと思いきや、今年は豊作なのだという。稲は冷夏には大きくダメージを受けるが暑さには強いそうだが、素人はそれにしても暑すぎたのでは、と心配してしまう。豊年、豊作、豊の秋、列車の旅をすると必ず目にする水田の風景。もっぱら食べるだけの身にもその喜びがしみじみ感じられる言葉だ。炊き立ての白いご飯をこんもり盛って、その湯気を両手に包むときの幸せ・・・もう今年米が出回り始めているし残ってるお米をさっさと食べようなどと考えながら、この句を読んで手元の切手をちょこっとなめてみた。切手の糊の原料は昔はデンプンだったが、今は化学的な成分になっているということで、甘さに敏感な舌先にも当然のことながら甘みは感じられない。でもそういえばちょっと甘かったこともあるような気がするなと思いながら、切手の舌ざわりと豊年がふとつながった瞬間を思い描いている。『新日本大歳時記 秋』(1999・講談社)所載。(今井肖子)


September 1192010

 夕ひぐらし髪を梳かれてゐるやうな

                           神戸周子

年、蜩のかなかなかな、を耳にしたのは旅先で一度だけ。東京近郊に住む友人からのメールには盛夏の頃から「毎日蜩を聞きながら一日が終わります」と書かれていて、なつかしく羨ましく「遊びに行きます」と返信したがかなわなかった。早朝鳴いていることもある蜩だが、この句の蜩は夕暮れ時の遠ひぐらし。じっと聞いている作者を、夕ひぐらしが濡らしてゆく。降るような包むような蜩との透明な時間。梳く、というにふさわしいほど髪を伸ばしたことはないけれど、身をゆだねているその心地が静かに伝わってきて、目を閉じてひぐらしとの時間をそっと共有している。『展翅』(2010)所収。(今井肖子)


September 1892010

 虫売の鼻とがりつゝ灯にさらす

                           杉山岳陽

暑日が続いていたが、虫が鳴きだしたのは早かったように思う。虫売は文字通り虫を売ることを商売にする人のこと。この句を読んで、以前見た浮世絵を思い出した。後ろに虫籠がたくさん吊してあり、手前に大きく虫売の顔が描かれているのだが、長い顔に細い鼻でなんだか怒っているような悲しいような顔をしていたように思う、まあ浮世絵顔ということかもしれないが。勝手な言いぐさだけれど、虫売に太った人はいなかった気がする、昔見かけたひよこ売りのおじさんもしかり。灯にさらされたとがった鼻は、生きているものを売る、という商売のうっすらとした影を感じさせる。『図説俳句大歳時記 秋』(1964・角川書店)所載。(今井肖子)


September 2592010

 秋暑しすこやかなればめぐり合ひ

                           松本つや女

の句の前に〈夕顔に病み臥す人と物語〉〈堂縁に伏して物書く秋の風〉と続いている。いずれも、夫たかしを詠んでいるのだろう。一句目の物語、二句目の秋の風、共に過ごす時間に同じ風が吹いている。終生病弱であったたかし、病が進んでも衰えた様子を見せるのを嫌い、つや女にも、取り乱すことの無いようにと常々言っていたという。貴公子、と呼ばれたたかしだが、長く身の回りの世話をし、やがて一緒になったつや女には素顔のたかしが見えていたのだろう。残暑より少し秋の色合いの強い、秋暑し。まだ暑いながら時に秋風も立つ。この夏もなんとかのりきったなと一息つきながら、一瞬過去へ思いが巡ったのだろう。すこやか、の一語から、こめるともなくこもる思いが伝わってくる。『現代俳句全集 第一巻』(1953・創元社)所載。(今井肖子)


October 02102010

 にせものときまりし壺の夜長かな

                           木下夕爾

の長さを思うのは静かな時間だろう、一人かせいぜい二人か。虫の声が聞こえたり月が出ていたりする中、ぼんやりしたりしんみりしたり読書したり酌みかわしたり、というところか。この句とは『新日本大歳時記 秋』(1999・講談社)で出会ったのだが、なんともいえない夜長である。中七の、きまりし、の一語にリアリティがあり、壺の、で軽く切れて、夜長かな、へ向かって溜息がひとつ。暗く長い夜は、偽物の壺と、似せものを作ることしかできなかったこの壺の作り手にも幾たびも訪れたことだろう。そして、あやしいと思っていたけどやはりなあ、と溜息をつきながらも、作者はこの壺をきっと捨てられない、そんな気がする。(今井肖子)


October 09102010

 校庭のカリン泥棒にげてゆく

                           久留島梓

きくて香りの高いカリン(榠と木偏に虎頭に且)だけれど、生の実は固く渋い。薬にもなるというが、食べようと思えば、果実酒にしたり砂糖漬けにしたりと手間がかかる。そんなカリンの実、たわわに実ったうちのいくつかをもいで持っていったところでさして咎められることもなかろうに、泥棒という言葉が与えるスタコラサッサ感が、カリンのやたらにいびつな形と共にユーモラスだ。待て〜と追いかけることもなく、その後ろ姿を作者と共に見送りながら、思いきり伸びをして青空に向かって両腕を突き出したくなる。「教師生活三年目をなんとか終え」とある作者の二十句をしめくくっている一句は〈テストなど忘れてしまえ春近し〉上智句会句集「すはゑ(漢字で木偏に若)」(2010年第8号)所載。(今井肖子)


October 16102010

 虫の夜のコップは水に沈みをり

                           飯田 晴

元の「安野光雅の画集」(1977・講談社)に、「コップへの不可能な接近」(谷川俊太郎)という詩の抜粋が載っている。そこに「それは直立した凹みである」という一行があるのだが、テーブルに置かれた空のコップを見てなるほどと思った。そこに水を注ぐと、あたりまえだけれど水はきちんとコップにおさまり、コップは水を包み守りながら直立し続ける。そんなコップが一日の役目を終え、台所の流しに浸けられている。透明な水がそのうちそとを満たし、力のぬけたコップをいまは水が包んでいるようだ。ひたすらな虫の夜に包まれている作者、夜の厨の風景が虫の音を静かに際立たせている。『たんぽぽ生活』(2010)所収。(今井肖子)


October 23102010

 やゝ寒く人に心を読まれたる

                           山内山彦

や寒、うそ寒。いずれも晩秋の寒さなのでふるえるほどではないのだが、うそ寒の方が心情が濃い気がする。だからこそ、心を読まれたと感じた時の不意打ちにあったようなかすかなたじろぎと、やゝ寒という、あ、ひんやりという感じを心情をこめずに言っている言葉が呼び合うのだろう。これがうそ寒であったら、心持ちそのものがどこかうすら寒いということで、あたりまえな話になってしまいそうだ。思ったことがすぐ顔や態度に出るわかりやすいタイプは他人の心の中はあまりよくわからず、逆にいつも飄々として何を考えているかわからない人ほど、相手の考えていることを読めたりする。作者はきっと後者なのだろう。『春暉』(1997)所収。(今井肖子)


October 30102010

 水に生ふものの最も末枯れる

                           桑田永子

枯(うらがれ)も俳句を始めて知った言葉のひとつだ。いつだったか俳句の中に「葉先」という言葉を使った時「葉の先の方と言いたかったら、葉末、という言い方もありますよ」と言われ、なるほどと思った記憶がある。いっそ枯れきってしまえば、冬日の中に明るさを感じることもあるけれど、この時期の草の、青さを残しつつ枯れ始める様はうらさびしい。以前「水辺の草が一番早く枯れ始める」という意味合いの句を見たような記憶がある。この句も詠んでいる事柄は同じだけれど、最も、という言葉の強さと、末枯れる、という口語のちょっと突き放したような終わり方が、惜しむ間もほとんど無いまま寒くなった今年の秋を思わせる。『遺句集「来し方」その後』(2010)所収。(今井肖子)


November 06112010

 あたたかく靄のこめたる紅葉かな

                           深川正一郎

よりやや視界がよいのが靄、ということだが、霧は走るけれど靄は走らない、とも思う。この句の場合、山一面の紅葉が朝靄に覆われているのかもしれない。が、私には、湖の対岸にくっきりと見えていた一本の鮮やかな紅葉に今朝はうっすらと靄がかかっている、という景色がなんとなく浮かんだ。そこに朝日が差しこんでくると、湖面はかすかな風を映して漣が立ちはじめ、紅葉の彩をやわらかくつつんでいた靄はしだいに薄れていく。あたたかな靄の晴れてゆく湖畔で、作者は行く秋を惜しんでいるのかもしれない。『正一郎句集』(1948)は、川端龍子の装丁がしっとりとした作者の第一句集。四季別にまとめられているがその扉の、春、夏、秋、冬、の文字だけが水色で美しい。(今井肖子)


November 13112010

 朴落葉いま銀となりうらがへる

                           山口青邨

しいとはこのことか、という朴落葉を先日初めて見た。冬近い山湖のほとりで、それは落葉というよりまるで打ち上げられた魚の大群のようで、明らかに生気のない白さでことごとく裏返っていた。見上げた朴の大木には、今にも落ちてきそうな葉が揺れているのだが、どれもまだ枯れ色の混ざった黄色で、ところどころ緑が残っている。じっと見るうち、そのうちの一枚がふっと木を離れ、かさりと落葉に重なった。手にとってみると、その葉の裏はもう白くなりかけている。雨の後だったので、どの落葉も山気を含んで石のような色をしていたが、からっと晴れていたら、この句のように銀色に光るだろう。落葉になる一瞬、静かに舞うさま、落ちてなお冬日に耀く姿をゆっくり見せながら、いま、の一語が朴落葉に鮮やかな存在感を与えている。『俳句歳時記 第四版 冬』(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


November 20112010

 バス発てば君居なくなる寒くなる

                           辻田二章

は寒くても気持ちはあたたかい時もあればその逆もある。この句が生まれたのは、小春の休日だろうか。一緒に過ごしている間は、まさに賜った今日の日差しが何倍にも輝きを増して二人を包み、身も心もほわっとしているけれど、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。小さな今日だけの別れでも別れはさびしいものであり、それは会った時から、さらに会う前からわかっていたこと。バスが発ってしまって君がいなくなってだからさびしい、のではない。バスを見送りながら、わかっていたさびしさを今さらのようにかみしめていると、いつのまにか日は暮れていてさっきまで感じなかった寒さに急に襲われたのだろう。そして、今日一日の幸せな時間を思い出して、心にぬくもりを感じつつ家路をたどる作者である。『枇杷の花』(2001)所収。(今井肖子)


November 27112010

 猫の目に海の色ある小春かな

                           及川 貞

っ越して一年足らず、さすがにもう段ボールはないけれど、捨てられなかった古い本や雑誌がとりあえず棚に積まれている。それを少しずつ片付けていて「アサヒグラフ」(1986年7月増刊号)に遭遇した。女流俳句の世界、という特集で、美しい写真とともに一冊丸ごと女性俳人に埋め尽くされ、読んでいるときりもなく結局片付かない。そのカラーグラビアにあったこの句に惹かれ、後ろの「近影と文学信条」という特集記事を読みますます惹かれた。今ここに書けないのが残念だが、淡々とした語り口に情熱がにじんでいる。句帳を持たず、その時々の句は頭の中にいくつもありそれで十分、とあるが、この句もそんな中のひとつなのか。小さな猫の目の中に広がる海は、作者の心の奥にある郷愁の色を帯びて、さまざまな思いごと今は日差しに包まれている。(今井肖子)


December 04122010

 羽ばたきの一つありたる鴨の水

                           石井那由太

を埋めて丸くなったまま漂っている浮寝鳥、まこと気持ちよさそうでどんな夢を見ているのかと思うが、脚は常に動いており熟睡することはないらしい。それでも冬あたたかな池の辺で日向ぼっこしつつぼんやりしていると、鴨ものんびりしているように見える。そんな時、突然水音がしてそこに日差しが集まり一羽が羽ばたく。そしてきらきらとした音と光は一瞬で消え、そこは静かな鴨の池にもどるのだが、この句の下五が、鴨の池、だったら、一気に邪魔なものがいろいろ見えてきてどうってことのない報告になってしまう。鴨の水、という焦点の絞り方が、観たままでありながら一歩踏み込んで読み手をとらえるのだろう。『雀声』(2010)所収。(今井肖子)


December 11122010

 誰の手もそれて綿虫まどかなれ

                           大竹きみ江

綿虫、大綿、雪虫。あんなに小さいのにどうして大綿なのだろう、と思ったら、トドノネオオワタムシというのが正式な名称とのこと。その存在を、名前と共に認識したのは私の場合は俳句を始めてからだ。初めて、あ、これが綿虫か、とはっきり認識した時、自然と手が出たのを思い出す。特に捕まえようとしたわけでもなかったけれど、ふっと手が出てしまったのだった。きっとちょっと指があたっただけでも、綿虫にとっては大きい衝撃に違いない。綿虫が指をすり抜ける、というような見方はありがちだけれど、それて、と、まどかなれ、に願いのこもった慈しみが感じられる。知人が、飛んできた蚊をたたいたら小学一年生のお嬢さんに、蚊にも命があるんだよ、と言われてはっとしてしまった、と言っていたのを思い出した。まだまだ読みきれない『アサヒグラフ 女流俳句の世界』(1986年7月増刊号)所載。(今井肖子)


December 18122010

 落ちる葉のすつかり落ちて休憩所

                           上田信治

葉はやがて枯葉に、そして落葉となって土に還っていく。葉が落ちきってしまった木は枯木と呼ばれるが、そんな一本の木に何を見るか。青空に夕空に美しい小枝のシルエット、しっかり抱かれた冬芽、通り過ぎていく風の音、枝先を包む乾いた日差し。何かをそこに感じて、それを詠もうとすることに疲れた身にこの句は、少し離れたところから視線を投げかけるともなく投げかけている、勝手にそんな気がした。休憩所は、さまざまな人がちょっと立ち寄って、一息ついたら去っていく場所。そんな通りすがりの束の間に見上げる木には、もう一枚の葉も残っていない。落ちる葉、は、芽吹いた時から最後は落ちると決まっている葉、であり、そんな葉という葉が例外なくすべて落ちていくことは自然なことだ。ただそれを詠んでいるのに、すっと感じ入るのは、休憩所、という言葉の置かれ方の良さだろうか。『超新撰21』(2010・邑書林)所載。(今井肖子)


December 25122010

 ざらと置くロザリオもまた冬景色

                           柚木紀子

リスチャンでない私にはわからないのだとは思いながら、この句のロザリオの存在感が、12月25日という本来のクリスマスをあらためて感じさせてくれた。ロザリオは、その数珠のひとつひとつを手繰って祈るものだという。今そこに置かれたロザリオ、しんと静まっている窓の外の気配、かすかに揺れているろうそくの炎、それらすべてを作者の深い祈りと敬虔な心が包みこんでいる。キリストが誕生したという雪に覆われた遙かな冬、大地が眠る中何かが目覚めた遠いその瞬間を、思わず想像させられる。『麺麭の韻』(1994)所収。(今井肖子)




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