July 052010
吊革の誰彼の目の遠花火
相子智恵
勤めを辞めてから一年が経った。ほとんど電車には乗らなくなった。たまに乗ると、あまり混んでいなくてもひどく疲れる。バスにはよく乗るけれど、こちらはそんなに疲れない。何故かと考えてみるに、バスの乗客はほとんどが同じ地域に暮らす人々なので、なんとなく親近感を持てるからではないかと思う。比べて電車の乗客にはそういうことがない。つまり、電車の乗客のほうが匿名性が高いのである。その匿名性の圧力に疲れてしまうのだ。句のような帰宅客を乗せた車内では、一日の肉体的な疲れもあるのでなおさらだろう。みんなが、早く自分の駅に着かないかと、それだけを願っている。そんな乗客の目に、遠花火が写り込んできた。「誰彼」と言わず、みんなが吊革につかまりながらそちらをいっせいに見やっている。ほんの束の間だけれども、このときに匿名性が少し緩む。ばらばらの思いや感情が、花火を通してすうっと一体になるような……。思わずも口元がほころびそうになるような短い時間を巧みにとらえた句だと読んだ。「俳句」(2010年7月号)所載。(清水哲男)
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