「蹴球よりも野球のほうが面白い。蹴球には本塁打がないから」。御意。(哲




2010ソスN7ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0572010

 吊革の誰彼の目の遠花火

                           相子智恵

めを辞めてから一年が経った。ほとんど電車には乗らなくなった。たまに乗ると、あまり混んでいなくてもひどく疲れる。バスにはよく乗るけれど、こちらはそんなに疲れない。何故かと考えてみるに、バスの乗客はほとんどが同じ地域に暮らす人々なので、なんとなく親近感を持てるからではないかと思う。比べて電車の乗客にはそういうことがない。つまり、電車の乗客のほうが匿名性が高いのである。その匿名性の圧力に疲れてしまうのだ。句のような帰宅客を乗せた車内では、一日の肉体的な疲れもあるのでなおさらだろう。みんなが、早く自分の駅に着かないかと、それだけを願っている。そんな乗客の目に、遠花火が写り込んできた。「誰彼」と言わず、みんなが吊革につかまりながらそちらをいっせいに見やっている。ほんの束の間だけれども、このときに匿名性が少し緩む。ばらばらの思いや感情が、花火を通してすうっと一体になるような……。思わずも口元がほころびそうになるような短い時間を巧みにとらえた句だと読んだ。「俳句」(2010年7月号)所載。(清水哲男)


July 0472010

 大揚羽教師ひとりのときは優し

                           寺山修司

の句の初出は昭和29年の「蛍雪時代」ということですから、高校3年生の時の作者が、初々しく詠んだ句となります。今では、教師が優しいのはあたりまえというか、優しくなければ問題になるわけですが、当時の教師像というのは、人によって差はあっても、今よりもだいぶ厳格な印象を持たれていたものです。とはいうものの、生来の人のあり方が、たかが半世紀ほどで変わるわけもありません。生徒の前ではいかめしい表情を見せていても、一人になったときには、いつもとは違う穏やかなものをたたえていたということのようです。「大揚羽」のおおぶりな書き出しが、生徒にとっての教師の大きさに、自然とつながっています。また、「ひとり」という言葉から連想されるさびしさも、きちんと「優し」には含まれていて、この教師のこれまでの人生が、妙にいとしく感じられてきます。『寺山修司全詩歌句』(1986・思潮社)所収。(松下育男)


July 0372010

 凌霄花けはしきまでに空青し

                           坂口裕子

霄花(のうぜんか)、ノウゼンカズラは一日花だが花の数が多いからか、いつもたくさん咲いてたくさん散っている気がする。百日紅や夾竹桃のピンクがかった赤は、強い日差しと乾いた暑苦しさを思わせるが、黄みがかった朱色の凌霄花にはなんとなく濡れた印象がある。梅雨のイメージが重なるからか、花が大きく柔らかくぼたぼた散ってしまうからか。そんな凌霄花の朱色と夏空の青と光る雲の白がきっぱりと鮮明な掲出句。凌霄花が咲き乱れているなんとも言いがたい様が、けはしきまでに、という表現を呼び起こしたのだろうか。それにしてもこんな夏空はもう少し先だな、と思いながら、七月の声を聞くとどこかわくわくして、真夏の句に惹かれてしまうのだった。俳誌「花鳥来」(2010年夏号)所載。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます