リ檀句

July 0772010

 極悪人の顔して金魚掬ひけり

                           柴田千晶

衣姿の娘っ子たちが何人かしゃがみこんで、夜店で金魚掬いを楽しんでいる――などという風情は、今やあまりにも古典的に属すると嘲笑されるかもしれない。しかし、そこへ金魚を掬おうとして割りこんで来た者(男でも女でもよかろう)がいる、とすれば「古典的」な金魚掬いの場面は、甘さから幾分は救われるというもの。「極悪人の顔して」というのだから、その者が極悪人そのものであるわけではない。たとえば、虫も殺さぬようなしとやかな女性であっても(いや、誰しも)、いざ一匹でも多くの金魚を掬いとらんとなれば、身構えも表情も真剣そのものとなるのは当然。それを「極悪人の顔」ととらえたところに、千晶らしい毒を含んだ鋭い視点が生まれた。極悪人に掬われるな! 逃げろ、金魚たち! まともな金魚掬いの情景を詠んだところで、誰も振り向いてはくれない。先般6月の余白句会で、兼題「極」を折り込んで投じられたこの一句、みごと“天”を獲得した。私は旅行中で当日欠席したが、もし出席していれば“天”を投じたに違いない。金魚はその美しさ、奇異な愛らしさなどが観賞され愛玩されるわけだが、いきなり敢えて「極悪人」をもちこんできたことで、句のテンションが上がった。千晶の「鰯雲の不思議な日暮排卵日」(句集『赤き毛皮』)から受けた衝撃は今も忘れがたい。怖い詩人である。第89回余白句会報告(2010)より。(八木忠栄)


July 1472010

 つめたい爪で戦争がピアノ弾いてゐる

                           天沢退二郎

ではなく、「つめたい爪」がピアノを弾いている、ととらえている。その「爪」は戦争のそれである。「つめたい」といっても、それを冬の季語などと堅苦しく限定することは、この場合むしろナンセンスであろう。戦争は「熱い」とするのが一般的かもしれないが、いっぽうで「冷たい戦争」「冷戦」という言い方がある。擬人化された戦争が鋭く尖った冷酷な爪をかまえて、ピアノの鍵盤をかきむしっているという、モンスターめいた図は穏やかではない。いや、戦争が冷たかろうが熱かろうが、穏やかであるはずがない。戦争というバケモノが恐ろしい表情と風体で、現に世界の各地で激しく、また密かにピアノを怪しく弾いているではないか。愚か者どもによるピアノ演奏を止めるのは容易ではないどころか、ますます激昂して拍手を送る徒輩さえいる。そういえばポランスキーの「戦場のピアニスト」という映画があった。また、古い記憶を遡って、粟津潔の映像作品「ピアノ炎上」(1973)を想起した。消防服を着た山下洋輔が燃えているピアノを弾いて、燃え崩れるまで弾きつづけたもので、今もパソコンで映像にアクセスすることができる。退二郎は高野民雄らと「蜻蛉句帳」を出しつづけている。同誌に「帆船考」として退二郎は掲句の他に、自在に詠んだ「列島をうそ寒き夏の這い登る」など六句と、「ふんどしを締めて五月の猫走る」など十五句を一挙に発表している。「蜻蛉句帳」44号(2010)所載。(八木忠栄)


July 2172010

 楽屋着も替えて中日や夏芝居

                           中村伸郎

者は夏の稽古場では、たいてい浴衣を着ている。からだにゆるくて動きやすいからである。若い役者はTシャツだったりする。掲句は本公演中での楽屋着である。こちらも趣味のいい柄の浴衣を、ゆったりと着こなしていたりする。公演も中日(なかび)頃になれば、楽屋着も替えるのは当然である。舞台ではどんな役を演じているにしても、楽屋ではがらりとちがった楽屋着にとり替えて、楽屋仲間や訪問客と気のおけない会話をかわすひとときでもある。楽屋着をとり替えて、さて、気分も新たに後半の公演にそなえようというわけである。舞台とはちがった楽屋のゆったりとした雰囲気が、それとなく感じられるような句である。江戸時代、夏は山王や神田をはじめ祭が盛んで、芝居興行は不振だったことから、若手や地位の低い役者が一座を組んで、力試しに興行したのが夏芝居や夏狂言だった。掲句の「夏芝居」は、もちろん現代の夏興行の芝居を指している。後藤夜半に「祀りある四谷稲荷や夏芝居」がある。伸郎(のぶお)は文学座から最後は劇団「円」の代表となった。この役者の冷たいまでに端正な風貌とねじ込んだようなセリフまわしは、小津映画や黒澤映画でもお馴染みだった。随筆・俳句集『おれのことなら放っといて』がある。平井照敏編『俳句歳時記・夏』(1969)所載。(八木忠栄)


July 2872010

 釣りをれば川の向うの祭かな

                           木山捷平

と言えばこの時季、夏である。俳句では言うまでもなく、春は「春祭」、秋は「秋祭」としなければならない。祀=祭の意味を逸脱して、今や春夏秋冬、身のまわりには「まつり」がひしめいている。市民まつり、古本まつり、映画祭……。掲句の御仁は、のんびりと川べりに腰をおろして釣糸を垂れているのだろう。祭の輪に加わることなく、人混みにまじって汗を拭きながら祭見物をするでもなく、泰然と自分の時間をやり過ごしているわけだ。おみこしワッショイだろうか、笛や鉦太鼓だろうか、川べりまで聞こえてくる。魚は釣れても釣れなくても、どこかしら祭を受け入れて、じつは心が浮き浮きしているのかもしれない。私が住んでいる港町でも、今年は氏神様の三年に一度の大祭で、川べりや橋の欄干に極彩色の大漁旗がずらりと立てられていて、それらが威勢よく風にはためいている。浜俊丸、かねはち丸、八福丸……などの力強い文字が青空に躍っている。氏子でもなんでもなく、いつも祭の輪の外にいる当方でさえ、どことなく気持ちが浮ついて、晩酌のビールも一本余計になってしまうありさま。三年に一度、まあ悪くはないや。漁港では今日も大きなスズキがどんどん箱詰めされて、仲買人や料亭へ配送されて行く。さて、これから当地名物のバカ面踊りや、おみこしワッショイでも見物してくるか。「祭笛吹くとき男佳かりける」(橋本多佳子)。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


August 0482010

 秋めくや貝ばかりなる土産店

                           久米正雄

れほど賑わっていた海浜も、秋に入って波は高くなり、客も減ってくる。砂浜を初秋の風が徐々に走り出す。土産店もすっかり客足が途絶えてしまった。どこでも売っているような、子ども相手のありふれた貝細工くらいしか今は残っていない。この土産店は海水浴客相手の、夏場だけの店なのかもしれない。店内は砂埃だけが目立って、もはやあまり商売にならない時季になってしまった。海浜の店で売っているから、貝のおみやげはすぐそこの海で採れた貝であるという、整合性があるように感じられても、たいていはその海であがった貝ではない。各地から集められた貝が画一的に加工され、それを店が仕入れてならべているのだ。だから、自分が遊んで過ごした浜で拾った何気ない貝こそが、記念のおみやげになるわけである。売れ残って店にならぶ貝殻が、いかにももの淋しい秋を呼んでいるような気配。何年か前、秋めいた時季に九十九里浜へ出かけたことがあった。すでに海水浴客はほとんどいなくて、浜茶屋もたたみはじめていた。辛うじてまだ営業している浜茶屋に寄ると、何のことはない、従業員たち数人が暇をもてあまし、商売そっちのけで花札に興じていた。真っ黒い青年が「今度の日曜日あたりにはたたむだよ」と言っていた。「秋めくや売り急ぐものを並べけり」(神谷節子)。掲句の店では、もう「売り急ぐもの」などない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


August 1182010

 秋風や拭き細りたる格子窓

                           吉屋信子

年のように猛暑がつづくと、一刻も早く秋風にご登場願いたくなる。同じ秋風でも、秋の初めに吹く風と、晩秋に吹く風では涼しさ寒さ、その風情も当然ちがってくる。今や格子窓などは古い家屋や町並みでなければ、なかなかお目にかかれない。掃除が行き届き、ていねいに拭きこまれた格子は、一段と細く涼しげに感じられる。そこを秋風が、心地良さそうに吹きぬけて行くのであろう。もともと細いはずの格子を「細りたる」と詠んだことで、いっそう細く感じられ、涼味が増した。格子窓がきりっとして清潔に感じられるばかりでなく、その家、その町並みまでもがきりっとしたものとして、イメージを鮮明に広げてくれる句である。女性作家ならではのこまやかな視線が発揮されている。信子には「チンドン屋吹かれ浮かれて初嵐」という初秋の句もある。また、よく知られている芭蕉の「塚も動け我が泣く声は秋の風」は、いかにも芭蕉らしい句境であり、虚子の「秋風や眼中のもの皆俳句」も、いかにも虚子らしく強引な句である。「秋風」というもの、詠む人の持ち味をどこかしら引き出す季語なのかもしれない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


August 1882010

 あさがおはむらさきがいいな水をやる

                           瑛 菜

者は小学一年生の女の子で、俳人・大高翔さんのお嬢さん。朝顔の花には赤、ピンク、白、藍……いろいろあるし、紫もある。私の近所の家の垣根で、朝顔が毎年みごとな紫の花をたくさん咲かせてくれる。そこを通るたびにしばし見とれてしまう。朝顔の紫は品位があって優雅。奥行きのある、とてもいい色だと思う。小学一年生の女の子だったら、赤とかピンクの花を「いいな」と詠みそうな気がするけれど、「むらさきがいい」というのはオトナっぽい感受性だなあ、と感心した。瑛菜さんはおマセな子なのだろうか? きっと毎朝、朝顔に水をやることが日課になっているのだろう。期待に応えて朝顔もがんばってみごとな花を咲かせる。「いいな」の「な」は字余りだが、この一字が加わったことによって気持ちがはじけ、可愛さが増した。無垢な気持ちで一所懸命水をあげている姿が見えるようである。さて、今朝は花がいくつ咲いたのだろうか? でも、あんなに鮮やかに咲いた朝顔も、暑い昼には見る影もなくしぼんでしまう儚さ。掲句は大高翔が、今春まとめた『親子で楽しむ こども俳句塾』という本を瑛菜さんが読み、それを契機にして作った一句だという。同書には「親子ペア部門」があって、こどもと親の句がペアでならんでいるらしい。掲句に対応して母親の翔さんは「朝顔を気にして始まる子の一日」という句を作っている。「朝日新聞」2010年8月8日収載。(八木忠栄)


August 2582010

 秋風やうけ心よき旅衣

                           平賀源内

夕、そろそろ秋風の涼が感じられる…… そんな時季になってほしい。特に今年のように猛暑がつづいた後には、何よりも秋風を待ちこがれていた人も多いはず。一息入れて旅衣も新調して出発する身に、秋風は今さらのようにさわやかに快く感じられるのであろう。「うけ心」とはそういう心地を意味している。「秋風」と言っても、ここでは心地よさが感じられる初秋の頃の風である。汗だくになって日陰や涼を求めて動いていた人々の夏が、ウソのように感じられてくる日々。秋も深まった頃の風だと、ニュアンスはだいぶ違ってくる。よく知られているように、十八世紀にエレキテルばかりでなく幅広いジャンルで活躍したスーパースター源内は、ハイティーンの頃から二十年余俳諧にもひたり、俳紀行『有馬紀行』を著した。俳号は李山。「詩歌は屁の如し」という有名な言葉を残しているが、源内のようなマルチな“巨人”にとって、俳句をひねることなどまさしく屁をひるようなものであったかもしれない。いや、そうではなかったとしても、「屁の如し」と言い切るところに、源内らしさが窺われるというものである。他に「湯上りや世界の夏の先走り」という源内らしい句がよく知られている。磯辺勝氏はこう書く。「源内の意識のうえでの俳諧よりも、彼の文事、ひいては生き方そのものに、彼の本当の俳諧が露呈している」。磯辺勝『巨人たちの俳句』(2010)所載。(八木忠栄)


September 0192010

 二百十日馬の鼻面吹かれけり

                           高田 保

日は二百十日。立春からかぞえて二百十日目にあたる。今夏は世界的に異常気象だったけれど、厄日とされてきたこの日、果たして二百十日の嵐は吹き荒れるのかどうか……。「二百十日」や「二百二十日」といった呼称は、近年あまり聞かれなくなった。かわって「エコ」や「温暖化」という言葉が、やたらに飛びかう時代になりにけり、である。猛暑のせいで、すでに今年の米の実りにも悪しき影響が出ている。さらに早稲はともかく、今の時季に花盛りをむかえる中稲(なかて)にとっては、台風などが大いに気に懸かるところである。ところで、馬の顔が長いということは今さら言うまでもない。長い顔の人のことを「馬づら」どころか、「馬が小田原提灯をくわえたような顔」というすさまじい言い方がある。馬の長い顔は俳句にも詠まれてきた。よく知られている室生犀星の傑作に「沓かけや秋日に伸びる馬の顔」がある。馬はおとなしい。その「どこ吹く風」といった長い鼻面が、二百十日の大風に吹かれているという滑稽。さすがの大風も、人や犬の鼻面に吹くよりは吹きがいがあろう、と冗談を言いたくもなる句ではないか。意外性の強い俳句というわけではないけれど、着眼がおもしろい。小説家・劇作家として活躍した保は、多くの俳句を残している。他に「広重の船にも秋はあるものぞ」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 0892010

 秋風や人なき道の草の丈

                           芥川龍之介

正九年、二十八歳のときの作。詞書に「大地茫茫愁殺人」とある。「愁殺(しゅうさい)人」とは、甚だしく人を悲しませるという意味である。先々週水曜日の本欄で初秋の風の句(平賀源内)をとりあげたが、掲句の風はもっと秋色を濃厚にしている時季である。寒いくらいの秋風が吹いている道だから、人通りも無いのだろう。ただ道ばたの雑草が我がもの顔に丈高く繁って風に騒いでいるという、まさしく茫々たる景色である。どこか物悲しくもある。それはまた、やがて自死にいたる芥川のこころをその裏に潜ませていた、と早とちりしたくもなる句ではないか。(もっとも自死は七年後だった)そのように牽強付会ぬきにしても、いずれにせよ単に秋風の道のスケッチにとどまっていないのは確かであろう。八月に岩波文庫版『芥川竜之介俳句集』が刊行された。編者の加藤郁乎が解説で、「ぼくが死んだら句集を出しておくれよ」と芥川が言っていたことを紹介している。さらに、芥川が「俳壇のことなどはとんと知らず。又格別知らんとも思はず。(略)この俳壇の門外漢たることだけは今後も永久に変らざらん乎」と書いていた言葉を紹介している。生前、確かに俳人たちとの接点はまだ少なかったようだが、「その俳気英邁を最初に認めた俳人は飯田蛇笏であろう」と郁乎氏。芥川には秋風を詠んだ句が目につく。「秋風や秤にかかる鯉の丈」「秋風や甲羅をあます膳の蟹」など。『芥川竜之介俳句集』(2010)所収。(八木忠栄)


September 1592010

 横町に横町のあり秋の風

                           渋沢秀雄

っとこさ秋風が感じられる季節にたどりついた。秋風は町ではまず大きな通りを吹き抜けて行く。つづいて大通りから入った横町へ走りこみ、さらに横町と横町を結ぶ小路や抜け裏へとこまやかに走りこんで行く。横町につながる横町もあって、風は町内に隈なく秋を告げてまわるだろう。あれほど暑かった夏もウソのように過ぎ去って、横町では誰もが涼しい風を受け入れて、「ようやく秋だねえ」「秋になったなあ。さて…」と今さらのように一息入れて、横町から横町へと連なるわが町内を改めて実感しているだろう。味も素っ気もない大通りではなく、横町が細かく入りくんでいる町の、人間臭い秋の風情へと想像は広がる。落語の世界ではないが、やはりご隠居さんは大通りではなく横町に住んでこそ、サマになるというものである。裏長屋から八つぁん熊さんが、風に転がるようにして飛び出してきそうでもある。秋風が横町と横町をつなぐだけでなく、そこに住む人と人をもつないで行く。秀雄は「渋亭」の俳号をもち、徳川夢声、秦豊吉らと「いとう句会」のメンバーだった。他に「北風の吹くだけ吹きし星の冴え」「うすらひに水鳥の水尾きてゆるゝ」等がある。平井照敏編『新歳時記』(1996)所載。(八木忠栄)


September 2292010

 山径にあけび喰うて秋深し

                           白鳥省吾

けびは「通草」「木通」と書き、秋の季語だから掲句は季重なりということになる。まあ、そんなことはともかく、ペットボトルの携行など考えられなかった時代、旅先であろうか、山径でたまたま見つけたあけびをもぎとって食べ、乾いたのどを潤したのであろう。その喜び、安堵感。「喰(くろ)うて」という無造作な行為・表現が、その様子を伝えている。喰うて一服しながら、今さらのように秋色の深さを増してきている山径で、感慨を覚えているのかもしれない。自生のあけびを見つけたり、なかば裂開しておいしそうに熟した果肉を食べた経験のある人は、今や少なくなっているだろう。子どもの頃、表皮がまだ紫色に熟していないあけびを裏山からもぎ取ってきて、よく米櫃の米のなかにつっこんでおいた。しばらくして食べごろになるのだった。白くて甘い胎座に黒くて小粒の種が埋まっている。あっさりした素朴な甘い味わいと、珍しい山の幸がうれしかった。種からは油をとるし、表皮は天ぷら、肉詰め、漬物にしたりして山菜料理として味わうことができる。蔓は生薬にしたり、乾燥させて篭などの工芸品として利用されるなど、使いみちは広い。あけびは山形県が圧倒的生産量を誇るようだが、同地方では、彼岸には先祖の霊が「あけびの舟」にのって帰ってくる――という可愛い言い伝えもあって、あけびを先祖に供える風習があったとか。飯田龍太に「夕空の一角かつと通草熟れ」の句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 2992010

 人棲まぬ隣家の柚子を仰ぎけり

                           横光利一

ういう事情でお隣は空家になったのかはわからない。けれども、敷地にある大きな柚子の木が香り高い実をたくさんつけているから、秋の気配が濃厚に感じられる。かつてそこに住んでいた人が丹精して育てあげた柚子の木なのだろう。柚子を見上げている作者は、今はいなくなった隣人へのさまざまな思いも、同時に抱いているにちがいない。今の時季だと散歩の途次、柚子の木が青々とした実をつけているのに出くわす機会が多い。しばし見とれてしまって、その家の住人への想いにまで浸ることがある。どうか通りがかりの心ない人に盗られたりしませんように、などと余計なことを願ってみたりもする。小ぶりなかたちとその独特な香気と酸味は誰にも好まれるだけでなく、重宝な果実として日本料理の薬味としても欠かせない。柚子味噌、柚子湯、柚子酢、柚子茶、柚子餅、ゆべし、柚子胡椒……さらに「柚子酒」という乙な酒もある。『本朝食鑑』には「皮を刮り、片を作し、酒に浮かぶときは、酒盃にすなはち芳気あひ和して、最も佳なり」とある。さっそく今夜あたり、ちょいと気取って試してみましょうぞ。柚子の句には「美しき指の力よ柚子しぼる」(粟津松彩子)「柚子の村少女と老婆ひかり合ふ」(多田裕計)などがある。利一はたくさんの俳句を残した作家である。「白菊や膝冷えて来る縁の先」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 06102010

 台風の去つて玄海灘の月

                           中村吉右衛門

右衛門は初代(現吉右衛門は二代目)。今年はこれまで、日本列島に接近した台風の数は例年にくらべて少ない。猛暑がカベになって台風を近づけなかったようなフシもある。九州を襲ってあばれた台風が福岡県西方の玄海灘を通過して、日本海か朝鮮半島方面へ去ったのだろう。玄海灘の空には、台風一過のみごとな月がぽっかり出ている。うたの歌詞のように「玄海灘の月」がどっしりと決まっている。「ゲンカイナダ」の響きにある種のロマンと緊張感が感じられる。「玄海灘」は「玄界灘」とも書くが、地図をひらくと海上に小さな玄界島があり、玄海町が福岡県と佐賀県の両方に実在している。玄海灘には対馬海流が流れこみ、世界有数の漁場となっている。また1905年には東郷平八郎率いる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を迎え撃った、知る人ぞ知る日本海海戦の激戦地でもある。海戦当時、吉右衛門は19歳。何ごともなかったかのような月に、日本海海戦の記憶を蘇らせ重ねているのかもしれない。高浜虚子と交流があり、「ホトトギス」にも顔を出した吉右衛門には『吉右衛門句集』がある。俳句と弓道を趣味としたそうである。浅草神社の句碑には「女房も同じ氏子や除夜詣」、修善寺梅林の句碑には「鶯の鳴くがままなるわらび狩」が刻まれている。台風の句には加藤楸邨の「颱風の心支ふべき灯を点ず」がある。平井照敏編『新歳時記』(1996)所収。(八木忠栄)


October 13102010

 全山をさかさまにして散る紅葉

                           岡田芳べえ

年は猛暑のせいで曼珠沙華の開花が遅かった、と先日のテレビが報道していた。紅葉はどうなのだろうか? 直近の情報をよく確認して出かけたほうがよさそう。紅葉は地域によってまちまちだが、今はまだ「散る」というタイミングではないのかもしれない。たしかに紅葉は木の枝から地上へ、つまり天から地へと散るわけだけれども、芳ベえは天地をひっくり返してみせてくれた。そこに俳句としてのおもしろさが生まれた。自分ではなく対象をひっくり返したところがミソ。風景をさかさまにすれば、紅葉は〈地上なる天〉から〈天なる地上〉に散ることになるわけだ。山火事のごとくみごとに紅葉している全山を、ダイナミックにひっくり返してしまったのである。天地を逆転させた、そんな紅葉狩りも愉快ではないか。作者はふざけているのではなく、大真面目にこの句を詠んだにちがいない。芳べえ(本名:芳郎)は詩人・文筆家。「俳句をつかんだと思った時期もあったが、それは一瞬ですぐ消えた。つかめないままそれでも魅力を感じるので離れられない」と述懐している。まったくその通り、賛同できますなあ。他に「暮の秋走る姿勢で寝る女」「鍋が待つただそれだけの急ぎ足」などがある。「毬音」(2005)所載。(八木忠栄)


October 20102010

 時計屋の主人死にしや木の実雨

                           高橋順子

の季語「木の実」には、「木の実時雨」「木の実独楽」「万(よろづ)木の実」など、いかにも情緒を感じさせる傍題がいくつかある。掲句の「木の実雨」も傍題の一つ。まあ、木の実と言っても、一般にはどんぐりのたぐいのことを言うわけだろうけれど、どこか懐かしい響きをもつ季語である。たまたま知り合いか、または近所に住む時計屋の主人なのか、彼が亡くなったらしいのだけれど、コツコツコツコツとマメに時を刻む時計、それらを扱う店の主人の死は、あたかも時計がピタリと止まったかのような感じに重なって、妙に符合する。木の実が落ちる寂しい日に、時計屋のおやじは死んだのかもしれない、と作者は推察している。そこにはシイーンとした静けさだけが広がっているように思われる。「死にしや」という素っ気ない表現が、黙々と働いていたであろう時計屋の主人の死には、むしろふさわしいように思われる。俳句を長いことたしなんでいる順子の俳号は泣魚。「連れ合い」の車谷長吉と二人だけでやる「駄木句会」で長吉から○をもらった七十余句が、「泣魚集」として順子のエッセイ集『博奕好き』(1998)巻末に収められている。そこからの一句をここに選んだ。他の句には「柿の実のごとき夕日を胸に持つ」や「春の川わたれば春の人となる」などがある。(八木忠栄)


October 27102010

 寺の前で逢はうよ柿をふところに

                           佐藤惣之助

この寺の前で、何の用があって、いったい誰と「逢はう」というのか――。「逢はうよ」というのだから、相手は単なる遊び仲間とか子どもでないことは明解。田舎の若い男女のしのび逢いであろう(「デート」などというつまらない言葉はまだ発明されていなかった)。しかも柿という身近なものを、お宝のように大事にふところにしのばせて逢おうというのだ。その純朴さがなんともほほえましい。同時にそんなよき時代があったということでもある。これから、あまり人目のつかない寺の境内のどこかに二人は腰を下ろして、さて、柿をかじりながら淡い恋でも語り合おうというのだろうか。しゃれた喫茶店の片隅で、コーヒーかジュースでも飲みながら……という設定とはだいぶ時代がちがう。大正か昭和の10年代くらいの光景であろう。ふところは匕首のようなけしからんものも、柿やお菓子のような穏やかなものもひそむ、ぬくもった不思議な闇だった。掲句の場合の柿は小道具であり、その品種まで問うのは野暮。甘い柿ということだけでいい。柿の品種は現在、甘柿渋柿で1000種以上あるという。惣之助は佐藤紅緑の門下で、酔花と号したことがあり、俳誌「とくさ」に所属した。句集に『螢蠅盧句集』と『春羽織』があり、二人句集、三人句集などもある。他に「きりぎりす青き舌打ちしたりけり」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 03112010

 一筋に生きてよき顔文化の日

                           小森白芒子

日は文化の日。明治天皇の誕生日であり、もともと「天長節」とされ、「明治節」と定められていたが、戦後になってから「文化の日」と改められた。「自由と平和を愛し、文化を進める日」とされる。自由も平和も文化立国も掛け声はともかく、ご存じの通り現状はきわめてお粗末というか困難が継続している。毎年恒例、新聞に大きく文化勲章受章者の記念写真が載るのを、私などはずっと遠い出来事として眺めてきた。今年の受章者は蜷川幸雄ら七名。昨年は桂米朝が受章者の一人だった。一昨年は古橋広之進や田辺聖子ら。それ以前には、受章を辞退したノーベル賞作家や大物女優がいた。もちろん勲章だけが文化の日ではない。かたちだけでなくて、魂の入った文化を育てないことには文化立国が泣く。さて、掲句。喜びを秘めた受勲者の記念写真を詠んだ句ととらえればムム彼らはみな「この道一筋」に生きてきた人たちであり、敬服に値するだろう。安っぽい笑顔ではなく、長年月培われてきた「よき顔」であるにちがいない。いや、叙勲とは関係なしととらえれば、さりげなく巷におられて、「この道一筋」に生きてきた職人とか、おじいさんやおばあさんのことを詠っているようにも思われる。本当はそうなのかもしれない。日頃は厳しいおじいちゃんの顔も、文化の日には特別輝いて「よき顔」に見えるのだろう。見る側の「よき心」だけが「よき顔」を発見できる。平井照敏編『新歳時記・秋』(1996)所収。(八木忠栄)


November 10112010

 たそがれてなまめく菊のけはひかな

                           宮澤賢治

と言えば、競馬ファンが一喜一憂した「菊花賞」が10月24日に京都で開催された。また、今月中旬・下旬あたりまで各地で菊花展・菊人形展が開催されている。菊は色も香も抜群で、秋を代表する花である。食用菊の食感も私は大好きだ。いつか今の時季に山形へ行ったら、酒のお通しとしてどこでも菊のおひたしを出されたのには感激した。たそがれどきゆえ、菊の姿は定かではないけれど、その香りで所在がわかるのだ。姿が定かではないからこそ「なまめく」ととらえられ、「けはひ」と表現された。賢治の他の詩にもエロスを読みとることはできるけれど、この「なまめく」という表現は、彼の世界として意外な感じがしてしまう。たしかに菊の香は大仰なものではないし、派手にあたりを睥睨するわけでもない。しかし、その香がもつ気品は人をしっかりとらえてしまう。そこには「たそがれ」という微妙な時間帯が作用しているように思われる。賢治の詩には「私が去年から病やうやく癒え/朝顔を作り菊を作れば/あの子もいつしよに水をやり」(〔この夜半おどろきさめ〕)というフレーズがあるし、土地柄、菊は身近な花だったと思われる。賢治には俳句は少ないが、菊を詠んだ句は他に「水霜のかげろふとなる今日の菊」がある。橋本多佳子にはよく知られた「菊白く死の髪豊かなるかなし」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 17112010

 ポケットのなかでつなぐ手酉の市

                           白石冬美

年のことながら、酉の市の頃になると、ああ今年も残りわずかという感慨を覚えずにいられない。今年は11月7日と19日、二の酉まで。酉の市の時季、夜はかなり冷えこんでくるから、コートを着た参詣者は肩をすくめ背を丸めて歩く。恋人同士だろう、若い男女が人混みに押されながら寄り添い、男性のコートのポケットに女性が手を差し入れ、人知れずしっかりと握りあっている。どんな寒風が吹いていても、そこだけは寒さ知らずの熱々の闇。ほほえましい図である。外に出ているほうの手には小さな熊手が握られているのかもしれない。恋人同士なら寒暖に関係なく、ポケットのなかで手をつなぐことはいつでもできるけれど、掲句ではにぎわっている「酉の市」がきいている。二人は参詣したあと、気のきいた店で熱燗でも酌み交わすのかも。酉の市の夜、周辺の街はどの店も客でいっぱいになってしまうから大変だ。浅草では江戸時代中期以降に繁昌しだしたと言われる祭礼だが、もともとは堺市鳳町の大鳥神社が本社。関東では吉原に近かった千束の大鳥神社が中心になっている。久保田万太郎の句に「くもり来て二の酉の夜のあたゝかに」がある。冬美の俳号は茶子。他に「あやまちを重ねてひとり林檎煮る」がある。「かいぶつ句集」第五十号・特別記念号(2009)所載。(八木忠栄)


November 24112010

 たくさんの犬埋めて山眠るなり

                           川上弘美

季折々の山を表現する季語として、春=山笑ふ、夏=山滴る、秋=山粧ふ、そして冬は「山眠る」がある。「季語はおみごと!」と言うしかない。冬になって雪が降ると♪犬はよろこび庭かけまわる……と歌われてきたけれど、犬だって寒さは苦手である。(冬には近年、暖かそうなコートを着て散歩している犬が目立つ。)ところで、「たくさんの犬埋めて」ってどういうことなのか? 犬の集団冬ごもり? 犬の集団自決? 犬の墓地? 悪辣非情な野犬狩り? 犬好きな人が熱にうなされて見た夢? で、埋めたのは何者? ーーまあまあ、ケチな妄想はやめよう。句集を読みながら、私はこの句の前でしばし足を止め、ほくそ笑んでしまった。だから俳句/文学はおもしろい。たくさんの犬を埋めるなんて、蛇を踏む以上に愉快でゾクゾクするではないか。しかも、山は笑っているわけでも、粧っているわけでもなく、何も知らぬげに静かに眠って春を待っているのだ。あれほど元気に走りまわり、うるさく吠えていた犬たちもたわいなく眠りこんでいるらしい。だからと言って、殺伐として陰惨という句ではなく、むしろ明るくユーモラスでさえある。句集全体が明るく屈託ない。そして犬たちは機嫌よく眠っているようだ。弘美さんは犬好きなのだろう。この待望の第一句集十五章のうち、三つの章を除いた各章の扉絵(福島金一郎)に犬が描かれているくらいだもの。犬を詠んだ句も目立つけれど、「はるうれひ乳房はすこしお湯に浮く」なんて、ふわりとしていて好きな句だなあ。よく知られた傑作「はつきりしない人ね茄子投げるわよ」も引いておこう。句集『機嫌のいい犬』(2010)所収。(八木忠栄)


December 01122010

 凩や何処ガラスの割るる音

                           梶井基次郎

内を吹き抜けて行く凩が、家々の窓ガラスを容赦なくガタピシと揺らす。その時代のガラスは粗製でーーというか、庶民の家で使われていたガラスは、それほど上等ではなかっただろうし、窓の開け閉めの具合もあまりしっかりしていなかったから、強風に揺さぶられたら割れやすかったにちがいない。聞こえてくるガラスの割れる音が「何処(いづこ)」という一言によって、情景の広がりを生み出していて一段と寒々しい。目の前ではなく、どこぞでガラスの割れる音だけ聞こえてハッとさせられたのだ。同じ凩でも、芥川龍之介の「凩や東京の日のありどころ」とはまたちがった趣きをもつパースペクティブを感じさせる。三好達治がこんなエピソードを残している。あるとき基次郎に呼ばれて部屋へ行ったら、「美しいだろう」と言ってコップに入った赤葡萄酒をかかげて見せられた。なるほど美しかった。しかし後刻、それは今しがた基次郎が吐いたばかりの喀血だったとわかったという。「ガラスの割るる音」にも、基次郎の病的世界を読みとることができる。他に「梅咲きぬ温泉(いでゆ)は爪の伸び易き」がある。この句も繊細で基次郎らしい着眼である。三十一歳の若さで亡くなったゆえ、残された小説は代表作「檸檬」など二十編ほどで、俳句も多くはない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 08122010

 勘当の息子に会ひし火事見舞ひ

                           山遊亭金太郎

く知られているように、江戸の名物は「火事に喧嘩に中っ腹」と言われたという。火事で被災した家、または火元の近所の家に対して見舞いに伺う風習を「火事見舞い」とか「近火見舞い」と呼ぶ。私なども小さい頃、父が親戚へ近火見舞いに出かけて行った記憶があるけれど、今もやはり行われているようだ。日本酒かお金を包んで「お騒々しいことで…」と挨拶する。掲句の意味は、火事見舞いに行った先方の家で、勘当した息子にばったり出会ったというのではない。金太郎は落語家である。「火事息子」という落語があり、それによっている。ある日、神田の大きな質屋の近くから出火した。番頭が蔵に目塗りをする作業に取りかかるけれど、慣れない仕事で勝手がちがうからまごまごしている。そこへマシラのごとく屋根から屋根を伝ってやってきた若い火消し人足がいて、番頭に目塗りの指示をする。火事がおさまって(「しめって」と言う)その男を確かめると、なんと火事が好きで勘当になった質屋の若旦那。……それから父親と母親の情愛が屈折して展開するという、泣かせる人情話風の傑作落語である。この落語を知らない人には少々理解しにくい俳句かもしれない。金太郎は結社「百鳥」に属し、「秋の蠅八百屋に葱で追はれけり」がある。火事の句では金子兜太の「暗黒や関東平野に火事一つ」が忘れられない。「百鳥」2010年11月号所載。(八木忠栄)


December 15122010

 鮒釣れば生まれ故郷の寒さかな

                           佐々木安美

して楽しい釣りではなく、寒さのなかで一人じっと釣糸を垂れている図であろう。首尾よく鮒を釣りあげたことによって、なぜか故郷の寒さが忍ばれる。うん、納得できる。この場合、生まれ故郷で釣っているのではあるまい。安美の「生まれ故郷」は山形県。この寒さは故郷だけでなく、わが身わが心境の寒さでもあるのだと思われる。故郷とは、ある意味で寒いもの。鮒を釣りあげた喜びにまさる、身の引き締まるような一句ではないか。「釣りは鮒に始まって鮒に終わる」と言われる。新刊詩集『新しい浮子 古い浮子』(2010・栗売社)の冒頭の詩「十二月田」の第一行は「詩を書くのをやめてから/フナを釣り始めた」と始まり、「フナが/新しい友だちということではないのだが/フナを/釣らないではいられない」「無言で/フナを釣っている」といったフレーズがある。この詩のパート3は、掲句と「長竿の底より遠い冬の鮒」など俳句四句のみで構成されている。理由はわからないが、安美はしばらく詩を離れていて、これが二十年ぶりに刊行した詩集である。抑えられたトーンで、忘れがたい世界が展開されている。詩人が十年やそれ以上沈黙する例はある。(私も十年間、個人詩誌を出さなかったことがあった。)短詩型の場合は結社があるから、毎月必ず作品を出さなければならないから、出来は悪くても書きつづけるーーと岡井隆が最近の某誌で語っていた。そのあたりにも、詩と短詩型の相違があるかもしれない。(八木忠栄)


December 22122010

 極道に生れて河豚のうまさかな

                           吉井 勇

豚チリの材料は、今やスーパーでも売っているから家庭でも容易に食べられる。とはいえ、河豚の毒を軽々に考えるのは危険だ。けれども、それほど怖がられないという風潮があるように思う。まかり間違えば毒にズドン!とやられかねない。この場合、河豚は鍋であれ刺身であれ、滅多なことには恐れることなく放蕩や遊侠に明け暮れる極道者が、「こんなにうまいものを!」と見栄を切って舌鼓を打っているのだ。ここで勇は自分を「極道」と決めつけているのである。遊蕩と耽美頽唐の歌風で知られた歌人・勇の自称「極道」はカッコいい。恐る恐る食べるというより、虚勢であるにせよ得意満面といった様子がうかがわれる。極道者はそうでなくてはなるまい。「河豚鍋」という落語がある。旦那は河豚をもらったが怖くて食べられない。出入りの男に毒味をさせようと考えて、少しだけ持たせてやる。二、三日して男に別状がないので、旦那は安心して食べる。男「食べましたか?」旦那「ああ、うまかったよ」男「それなら私も帰って食べよう」。ーーそんな時代もあった。原話は十返舎一九の作。蕪村には「逢はぬ恋おもひ切る夜やふぐと汁」があり、西東三鬼には「河豚鍋や愛憎の憎煮えたぎり」がある。いかにも。平井照敏編『新歳時記・冬』(1996)所収。(八木忠栄)


December 29122010

 師走市値ばかり聞いて歩きけり

                           川口松太郎

の買物はもう済んだと思っても、年が押し詰まるまであれこれと必要なものに気がついたりして慌てることがある。値下がりする大晦日ぎりぎりまであえて待って買う、という買物上手な人もいらっしゃるだろう。だから大晦日の市は捨て値で売られるところから「捨て市」とも呼ばれる。また「師走市」は「歳の市(年の市)」とも呼ばれる。商人にとっては今年最後の予算を達成して正月を迎えよう、という目標があるわけだし、買うほうにしてみれば、似たような年末年始の品を少しでも安く買いたいと、あれこれ目移りしながら店をめぐる。掲句にはそうした気持ちの焦りというよりは、自嘲めいた余裕さえ感じられるではないか。寒気のなかで買い気をあおる懸命の売り声と、ためらいがちながらも真剣にお店を覗いて歩く人々。その雑踏のざわざわとした活況が見えてくるようだ。「値ばかり聞いて」歩いているのは、案外男性かもしれない。私も経験があるけれど、ふだんはあまり買物をしないから、値段というものの相場がよくわからない。つい高いものを買ってしまって家人に文句を言われるという経験は、どちらさまにもありそうだ。まあ、忙しない師走になぜかホッとする俳句である。松太郎には「湯のたぎる音きいてゐる雪夜かな」がある。一茶には「年の市何しに出たと人のいふ」があり、いかにも歳末の風情。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます