工事でマンションが灰色シートで覆われた。ブルーだったら事件だな。(哲




2010ソスN7ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0972010

 あぢさゐの毬の中なる隠れ毬

                           鷹羽狩行

ズムが明快で外の景の印象鮮明。機智があるけれど実感から入るために知的操作が浮き立たない。読み下して速度感がある。そしてどこか静謐な風景。抹香臭い神社仏閣などを源泉とするいわゆる俳句的情緒に依らない。内部の鬱を匂わせる戦後現代詩のモダンとは一線を画す。俳諧風流の可笑しみにも行かない。山口誓子が拓いて作者に受け継がれているこういう世界を今の流行には無い傾向として僕は見ている。あぢさゐの毬の中にある毬はあぢさゐの花の色と形から来る比喩として読めるが、同時にあぢさゐの咲いている茂みの中に置き忘れられた見えない毬を思っている内容にも思える。比喩としての毬と実際の毬が紫陽花の中で動いて重なる。『十六夜』(2010)所収。(今井 聖)


July 0872010

 生前と死後一対に重信忌

                           高橋 龍

信は1983年7月8日に亡くなった。彼が俳句の父と仰ぐ富澤赤黄男が昭和38年 3月8日、母と仰ぐ三橋鷹女が昭和48年4月8日に逝去、自分は58年5月8日に亡くなるだろうと常々予告していた。二か月ずれたが予言したとおり昭和58年に亡くなったわけで、その不思議さに言葉の呪力のようなものを感じる。それにしても享年60歳は若いと思わずにはいられない。重信が何かの評論で時間の遠眼鏡で未来から現在を覗くと今の俳句の世界は誰もいなくなって荒涼たるもんだと書いていた一節を覚えているが、その状況は今も変っていないだろう。若いころに結核を患い、常に晩年意識を持っていたこの人は常に死後の世界から現実を見ていたのかもしれない。生前と死後が一対だからこそ物事に対して見通しのよいまなざしを持ち鋭い評論を展開し続けることが出来たのだろう。『龍編纂』(2009)所収。(三宅やよい)


July 0772010

 極悪人の顔して金魚掬ひけり

                           柴田千晶

衣姿の娘っ子たちが何人かしゃがみこんで、夜店で金魚掬いを楽しんでいる――などという風情は、今やあまりにも古典的に属すると嘲笑されるかもしれない。しかし、そこへ金魚を掬おうとして割りこんで来た者(男でも女でもよかろう)がいる、とすれば「古典的」な金魚掬いの場面は、甘さから幾分は救われるというもの。「極悪人の顔して」というのだから、その者が極悪人そのものであるわけではない。たとえば、虫も殺さぬようなしとやかな女性であっても(いや、誰しも)、いざ一匹でも多くの金魚を掬いとらんとなれば、身構えも表情も真剣そのものとなるのは当然。それを「極悪人の顔」ととらえたところに、千晶らしい毒を含んだ鋭い視点が生まれた。極悪人に掬われるな! 逃げろ、金魚たち! まともな金魚掬いの情景を詠んだところで、誰も振り向いてはくれない。先般6月の余白句会で、兼題「極」を折り込んで投じられたこの一句、みごと“天”を獲得した。私は旅行中で当日欠席したが、もし出席していれば“天”を投じたに違いない。金魚はその美しさ、奇異な愛らしさなどが観賞され愛玩されるわけだが、いきなり敢えて「極悪人」をもちこんできたことで、句のテンションが上がった。千晶の「鰯雲の不思議な日暮排卵日」(句集『赤き毛皮』)から受けた衝撃は今も忘れがたい。怖い詩人である。第89回余白句会報告(2010)より。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます