東京地方、週間予報では週末に晴れ。これで梅雨明けかな。(哲




2010ソスN7ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1372010

 白玉にゑくぼをつけてゐるところ

                           小林苑を

玉とは、米からできた白玉粉で作る団子のこと。真珠をさす白玉という言葉が使われたこの美しい団子は、平安時代には汚れのない白さが尊ばれ、宗教上の供物として使われていた。作り方は単純明快。1)白玉粉を同量の水でこね、2)手のひらの上でくるくると丸め、3)たっぷりのお湯に投入し、4)浮き上がってしばらくしたら引きあげる。掲句は、団子に火を通しやすくするため、十円玉くらいに丸めた白玉に指の腹で窪みをつける2の手順における作業である。これが単なる段取りに映らないのは、前述の供物的な背景が影響しているわけでもなく、ただひたすらその純白な姿かたちの愛らしさに共鳴するものである。熱湯から引きあげられた白玉は、氷水に放たれ目の前でみるみる冷えていく。手のひらの上で生まれ、指の腹でやさしく刻印されたゑくぼを持つこの菓子のおだやかな喉越しは、夏負けの身体を内側から静かな涼気で満たしてくれる。〈蟻穴を出てもう一度穴に入る〉〈爪先を立てて水着を脱ぎにけり〉『点る』(2010)所収。(土肥あき子)


July 1272010

 梅丁寧に干し晩年と思ひけり

                           関 芳子

人はもとより、誰にもその人の「晩年」はわからない。晩年とは、その人の死後に生き残った人たちがその人のある年月を定義する言葉である。だから句の「晩年」は言葉遣いとしてはおかしいのだが、しかし主観的には死の間近さをこのように感じることはありそうだ。毎年くりかえして同じように梅を干してきたが、気がつけば今年はずいぶんと丁寧に干したのだった。このようないわばルーティンワークに、半ば無意識にせよ特別な気遣いをしたということは、死がそう遠くはないからなのかもしれない。そうでなければ、梅のひとつぶひとつぶをいとおしむような行為が自然にわいてくるはずもない。作者はそう思い、わがことでありながらあえて「晩年」という言葉を使った。この心理は若い人にはわかるまいが、高齢者には多かれ少なかれ普通についてまわるものだ。むろん、私とて例外ではない。性来がずぼらなのに、ときどきこれではいけないと何かをやり直したりするようになった。「晩年」と結びつけたくはないけれど、そうなのかもしれない。いずれにしても、年を取ってくると、これまでになかったような行為に我知らずに出ることがあるのは間違いないようだ。『未来図歳時記』(2009)所載。(清水哲男)


July 1172010

 選挙カー連呼せず過ぐ青田道

                           日下徳一

日は参議院議員選挙投票日ということで、選挙にまつわる句です。選挙といえば選挙カーのやかましい連呼を取り上げたくなりますが、そこをひとひねりして、連呼していないところを詠んでいるのがこの句のミソです。たしかに、聞く人がいなければ連呼する必要はないのだなと、あたりまえのことに改めて納得させられてしまいます。それよりもなによりも、この句を読んでいると、なんだかくっきりとした線のイラストを思い浮かべてしまいます。選挙という、まさに人の世の生々しい出来事を詠みながら、そんなことからは離れて、盛夏に真っ白な雲が遠景に浮かび、青田の間の道をはるか遠目に通過してゆく選挙カーのすがすがしい映像が、ジブリアニメのタッチで見えてきます。車の中では、さきほどまで声をからして叫んでいた女性が、冷たいお茶を飲んでしばし休憩でもしているのでしょうか。その顔さえ、なんだかジブリ映画によく出てくる、鼻筋の通った一途な女性の横顔になっています。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年7月5日付)所載。(松下育男)




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