まだ蝉の声を聞いてない。周辺の木は多いのに毎夏遅いのは何故?(哲




2010ソスN7ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2072010

 水桶に女の屈む朝曇

                           城倉吉野

日土用の入り。いよいよ日本のもっとも厳しい時節に足を踏み入れたわけだが、エアコンも扇風機もない時代から繰り返し乗り越えてきていることを思えば、暑いのは夏の取り柄なのだとわずかに開き直る心持ちにもなる。「朝曇(あさぐもり)」とは、「日照りの朝曇り」という言葉があるように、明け方どんよりと曇っていても、日中は辟易するような炎天になることをいう。高気圧に覆われていると風が弱いため、夜間は上層より下層の空気が冷え、雲ができやすくなっていて、いっとき朝方は曇っているが、日射により雲はみるみる消えてしまう、というれっきとした気象現象である。しくみはどうあれ、「ともかく今日は暑くなる」という体験による確信が伝わる季語であることから、掲句の屈む女の姿が際立つ。水桶に張った水面に映るどんよりと濁る曇天に、女のこれからの労働と、その背景に容赦なく照りつける太陽がもれなくついてまわる一日を思わずにいられない。日本人の生活感覚として確立された季語の、まさに本領発揮という一句である。〈千人の僧のごとくに夕立かな〉〈天の川ひとは小さな息をして〉『風の形』(2010)所収。(土肥あき子)


July 1972010

 半世紀前の科学誌毒茸

                           中村昭義

語は「茸(きのこ)」で秋。だが、この句は限りなく無季に近い。句の力点は、あくまでも「半世紀前の科学誌」にあるからだ。戸棚や物置の整理をしていて、子供時代に読んだ科学雑誌が出てきたのだろう。懐かしくてページを繰っていたら、たまたま毒茸の詳しい解説記事に目が止まった。写真やイラストの図解もあって、当時怖いと思いながらも熱心に見つめた記憶がよみがえってきた。誰でもそうだろうが、このように古雑誌や古新聞を眺めているうちに思いがたどり着くのは、記事そのものにまつわる事柄よりも、当時の自分のことや生活のことだ。いまは疎遠になっている友人のことや亡くなった人たちのことだったりもするのである。だから無季句に近いというわけで、熱心に接した媒体であればあるほど、その濃度は高い。句を読んで私などが思い出すのは「子供の科学」だ。田舎にいたのでめったに読む機会はなかったけれど、学校の理科の授業よりも数段面白かった。「縦に割けるキノコは食べられる」「毒キノコは色が派手で、地味な色で匂いの良いキノコは食べられる」などは迷信だ。などと書かれてあって、得意げに友人たちに触れ回ったこともある。作者の「科学誌」とは何だろうか。句に触発されて、いろいろなことが思い出され、しんみりとした良い時間が持てた。『神の意志』(2010)所収。(清水哲男)


July 1872010

 浴衣着て全身の皺のばしけり

                           米津勇美

読、小さく笑ってしまったのは、「全身の皺」をのばしている人の姿を思い浮かべてしまったからです。浴衣の皺かもしれませんが、むしろ本人の心身の皺のことを詠っているように感じられます。仕事着を脱ぎ、浴衣に着替えて、大きく伸びでもしたところでしょうか。もしかしたら、休暇をとって温泉宿にでも到着した時のことなのかもしれません。読んでいるだけでぐっと背筋を伸ばしてみたくなるような、心地よさを感じます。洋服の皺を伸ばすならもちろんアイロンでしょうが、体の皺をのばすとなれば、マッサージチェアーに座るか、あるいは人の手に揉みほぐしてもらうことになるのでしょう。それにしてもどうして生き物というのは、体に触れられて適度な力を加えられることが、あれほど気持ちのよいものなのでしょうか。わたしの場合、最近はもっぱら我が家の犬をそばにおいて、体中をさわってあげることに終始しています。そのうち犬は、あまりの気持ちよさに仰向けになって、脚をピンと伸ばしてきます。その姿を見ているだけで、心の中に一日たまったわたしの皺も、自然と伸びてくるようです。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年7月11日付)所載。(松下育男)




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