土用丑の日。ウナギを食すべきか否か。夕飯時まで毎夏悩む。(哲




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July 2672010

 カレー喰ふ夏の眼をみひらきつ

                           涌井紀夫

さには熱さと辛さで対抗だ。冷房など効いていない自宅か海の家みたいなところでか、「喰ふ」というのだから、作者の健啖ぶりが強く示されている。何度も意識的に「眼をみひらか」ないでおくと、汗が瞼を伝って目に流れ込んできてしまう。たぶんに心理的な要素がからんではいるけれど、誰にも覚えはあるだろう。こうした何でもないような身体の動きをとらえて、暑い時間にカレーを喰らう男の元気な様子を描出すると同時に、周囲の夏真っ盛りの情景までをも読者に想起させている。なかなかに巧みな「味」のある作品だ。作者の涌井紀夫は、最高裁判事として在職中の昨年暮れに、病に冒され亡くなった。煙草はまったく喫わなかったようだが、肺癌に倒れた。享年六十七。私とは少し縁があって、1960年の京大俳句会で束の間一緒だったことがある。端正な若き日の面差しを覚えている。合掌。俳誌「翔臨」(第68号・2010年6月)所載。(清水哲男)


July 2572010

 まつすぐに行けと片陰ここで尽く

                           鷹羽狩行

陰というのは、夏の午後に家並みなどの片側にできる日陰のことです。たしかに道が伸びていれば、日差しが強ければ強いほどに、濃い陰が道にその姿を現しているわけです。普段は、陰が落ちていようといまいとなんら気になりませんが、気温が36度だ38度だという日々になれば、おのずと陰の存在感が増してくるというものです。休日の午後に、必ず犬の散歩に向かう私は、そんな日には道の端っこを、陰の中からはみ出さないようにしておそるおそる歩いています。大きな家の前はよいけれど、家と家の間であるとか、細い木が植わっている場所であるとかは、おのずと陰はひらべったくなっていて、その細い幅の中を、綱渡りでもするようにして、あくまでも陰から出ないようにして歩きます。ところが、困りました。あるところで家並みは尽き、ここから先は全く陰のない、全面に日の降り注いでいる道になっています。一瞬ためらった後、なにをそんなにこそこそと歩いていたのかと、それまでの散歩が急に恥ずかしくなってきます。降り注ぐものはあるがままに受け止めよ。そんなふうにどこかから叱咤されたように気になって、犬とともに、勇気を持って歩き出すのです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


July 2472010

 炎天の石を叩けば鉄の音

                           吉年虹二

天、見るからに熱くて暑い言葉だ。酷暑の日中の空やその天気をいう、ということで、空を眺めてみる。連日まさに猛暑だが、あらためて見ると炎天は、その中心に太陽がぎらぎら溶け出して、全体が白い光に覆われている。外に出て庭に敷いてある白い玉砂利にふれてみると、強い日差しを受けながらさほど熱くはないけれど、その横の金属のフェンスは焼けそうだ。この句は、実際石を叩いたのかどうか定かではないが、本来どこかひんやりしたイメージのある石も、炎天下で叩くと、鉄のような決して澄んで美しいとはいえない金属音がしたのだろうか。鉄の重さや、いつか見た溶鉱炉のどろどろとした炎色が思われて、ますます暑くなってくる。『狐火』(2007)所収。(今井肖子)




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