庭の雑草が茂り放題。たしか暮鳥に「雑草が好き」という詩が。(哲




2010ソスN7ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2772010

 地物かと問はれ鰻が身をよぢる

                           白石めだか

日は土用の丑。どこの鰻屋もてんてこまいだったことだろう。平賀源内が夏場に鰻が売れない鰻屋に相談されて作ったコピーが発祥だったというが、「こう毎日暑いと鰻が食べたくなるね」と思うとちょうど土用の丑あたりに前後していたりするのも、不思議なことだ。姿かたちが気味悪いということで苦手な方もいるというが、先日が初めて生きている鰻に触る機会があった。といっても、ご主人がつかんでいる鰻の頭のあたりを人差し指でちょんとつつかせてもらったという程度だが、その弾力と、思いのほか明るい灰色の色合いは、大きなおたまじゃくしを思わせるものだった。地物(じもの)とはその土地で漁獲されたものをいうが、鰻においてその定義はまことに曖昧である。鰻の一生は、海で生まれ、川や湖で大きくなり、ふたたび海の中で卵を生むといわれているが、その回遊ルートはいまだはっきりしていない。天然鰻と呼ばれる川や湖で棲息している鰻も、生まれはどこかはるかなる南の海の彼方なのだ。とはいえ掲句の鰻は、どうも長旅を経た天然物ではなく、「いえ、もうそこらの養殖ものなんです」と恥じ入って、ひとかたまりに身をよじっているような、ユーモアとペーソスが交錯している姿に見える。〈やくたいもなき夜盗虫ころがしぬ〉〈そそるとは無花果の口半開き〉『婆娑羅』(2010)所収。(土肥あき子)


July 2672010

 カレー喰ふ夏の眼をみひらきつ

                           涌井紀夫

さには熱さと辛さで対抗だ。冷房など効いていない自宅か海の家みたいなところでか、「喰ふ」というのだから、作者の健啖ぶりが強く示されている。何度も意識的に「眼をみひらか」ないでおくと、汗が瞼を伝って目に流れ込んできてしまう。たぶんに心理的な要素がからんではいるけれど、誰にも覚えはあるだろう。こうした何でもないような身体の動きをとらえて、暑い時間にカレーを喰らう男の元気な様子を描出すると同時に、周囲の夏真っ盛りの情景までをも読者に想起させている。なかなかに巧みな「味」のある作品だ。作者の涌井紀夫は、最高裁判事として在職中の昨年暮れに、病に冒され亡くなった。煙草はまったく喫わなかったようだが、肺癌に倒れた。享年六十七。私とは少し縁があって、1960年の京大俳句会で束の間一緒だったことがある。端正な若き日の面差しを覚えている。合掌。俳誌「翔臨」(第68号・2010年6月)所載。(清水哲男)


July 2572010

 まつすぐに行けと片陰ここで尽く

                           鷹羽狩行

陰というのは、夏の午後に家並みなどの片側にできる日陰のことです。たしかに道が伸びていれば、日差しが強ければ強いほどに、濃い陰が道にその姿を現しているわけです。普段は、陰が落ちていようといまいとなんら気になりませんが、気温が36度だ38度だという日々になれば、おのずと陰の存在感が増してくるというものです。休日の午後に、必ず犬の散歩に向かう私は、そんな日には道の端っこを、陰の中からはみ出さないようにしておそるおそる歩いています。大きな家の前はよいけれど、家と家の間であるとか、細い木が植わっている場所であるとかは、おのずと陰はひらべったくなっていて、その細い幅の中を、綱渡りでもするようにして、あくまでも陰から出ないようにして歩きます。ところが、困りました。あるところで家並みは尽き、ここから先は全く陰のない、全面に日の降り注いでいる道になっています。一瞬ためらった後、なにをそんなにこそこそと歩いていたのかと、それまでの散歩が急に恥ずかしくなってきます。降り注ぐものはあるがままに受け止めよ。そんなふうにどこかから叱咤されたように気になって、犬とともに、勇気を持って歩き出すのです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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