また微熱つくつく法師もう黙れ(川端茅舎)。いや、まったく。(哲




2010ソスN8ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2982010

 サイロより人が首出し秋晴るる

                           木村凍邨

んどうの形の建物の、高いところに単純な窓がくりぬかれていて、そこから人が首を出しているというのです。おそらくその人は、秋に収穫した農産物か、あるいは家畜の飼料を収蔵する作業でもしていたのでしょう。この句を読んでいると、理屈ぬきにすがすがしい気持ちになります。その理由はおそらく、遠くへ放り投げられた視線にあるのではないかと思います。作者はあくまでもこちら側にいて、詠われている対象は適度な距離と、適度な高さのところ置かれています。まさに、対象に近づきすぎるなという、創作の基本を思い出させてもくれます。サイロの中は真新しい植物の匂いに満ち、むせ返るような命の熱に、思わず外の空気を吸いたくなったのでしょう。確認するまでもなく、秋の空は見事に晴れ、そのかけらがきらきらと、窓から入り込んで来ているのでしょうか。『合本 俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


August 2882010

 ひんやりと肌に知りけり島の秋

                           近藤みどり

さに疲れた身には、見た目も音もほっとする言葉、ひんやり。この句は、『ハワイ歳時記 元山玉萩編』(1970・博文堂)にある。海風にいち早く秋を感じるその肌は、ほぼ一年中風と太陽に晒されているわけで、ふと頬や首筋にその気配を感じるというのではなく、全身で秋を知るのだろう。今月半ば、ハワイのマウイ島で、マウイ在住歴2年から50年までの方々と句座を囲む機会に恵まれた。意外に涼しかったホノルルから飛行機で30分、空港に降り立った途端、全身を包んだ風はまぎれもなく秋の匂いがした。「ユーカリ林ももう秋です」「このところ海の色が変わってきました」など、皆さん四季を感じつつ、大きな自然と故郷の言葉を大切に詠んでおられたのが印象深い。表紙に「Hawaii Poem Calendar」とも書かれている島の歳時記、一年中空が美しく毎晩のように星が降るからだろう、「天高し」「流れ星」は載っていない。(今井肖子)


August 2782010

 ヴァギナの中の龍旱星

                           高野ムツオ

にはドラゴンとルビがふってある。肉体の器官の呼称でヴァギナの中に龍またはドラゴンの名が入る場所、またはそれと喩えられる箇所があるかどうかの知識が僕にないので、おそらくこれは作者の想念であろうと判断する。女体は人間を生み出す源として原初の時代から崇められてきた。作者の思念は、自らの立つ場所つまり大地と、自らを産んだ女体やヴァギナを表現の原点として意思的に捉えている。同じ句集にある「月光に稲穂は一穂ずつ女体」「祖母の陰百年経てば百日紅」(陰はほと、すなわち女陰)なども同様の思念の上にある。膣の中の深遠なる闇の中に一匹の龍が棲んでいる。すなわち命の発生をつかさどる神のごときである。旱星はみちのくの荒涼たる風土を象徴している。すなわちこれも神のごとし。身体の内側と外側に神が棲んでいて両者と交流しながら「私」が存在する。新興俳句の「モダン」が現代詩の「モダン」への憧憬から出発し、日本の現代詩の「モダン」が西洋詩の西洋的な風情に根を置いたところから出発したことを思えば、佐藤鬼房さんを経て作者につながる「モダン」がそういう「反省」の上に立って日本的土着のアニミズムと同化しようとしたことは俳句にとって的確な選択であったように僕には思える。『雲雀の血』(1996)所収。(今井 聖)




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