つい野球の順位表を眺めてはあれこれ計算してしまう時期。(哲




2010ソスN9ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1492010

 なみなみと大きく一つ芋の露

                           岩田由美

の露とは、七夕の朝、里芋の葉の露を集めて墨をすり、短冊に願いを書くと美しい文字が書けるようになるという故事からなるが、飯田蛇笏の〈芋の露連山影を正しうす〉以降、写生句として扱われることの方が多くなった。それでも「露」が背景に色濃く持つ、はかなく変化の多い世という嘆きが、芋の露に限って薄まるのは、つややかな里芋の葉に溌剌とした大粒の露がころんと転がる姿に、健康的な美しさを見出すからだろう。里芋の葉の表面にはごく細かなぶつぶつがあり、これにより超撥水性と呼ばれる効果を発揮する。水滴は球体でありながら葉にはぴったりと吸い付いて、なかなかこぼれ落ちないという不思議な仕組みがあるらしい。そしてなにより、いかにも持ちやすそうな茎の先に広がるかたちは、トトロやコロボックルたちの傘や雨宿り場所としても定番であったことから、どこか懐かしく、童話的な空気が漂う。句集のなかの掲句は〈追ひあうて一つになりぬ芋の露〉につづき、きらきらとした露の世界を広げている。芋の葉の真ん中に収まる露は、未来を占う水晶玉のごとく、朝の一番美しいひとときを映し出していることだろう。『花束』(2010)所収。(土肥あき子)


September 1392010

 椎茸を炙っただけの夫婦かな

                           塩見恵介

卓の様子は、家庭ごとにかなり異なる。日頃は自分の家のそれはごく普通だと思っているけれど、たまに気の置けない他家を訪れたりすると、そのことがよくわかる。だから、どんな家での日常的な食卓のレポートでも、そのままその家の家族のありようや流儀などを鮮やかに告げてくれる。テレビドラマで食卓のシーンが多いのも、そのせいだろう。あれこれ説明するよりも、食卓さえ写しておけばかなりのことがわかるからである。掲句も同様で、炙っただけの椎茸という料理とも言えない料理を前にして、べつだん気にしている様子もない夫婦の姿だ。良い夫婦像かどうかなどということは読み手の判断にまかされているが、作者はそんなことよりも、あらためてこの食卓を見つめてみることにより、自分たち夫婦の関係が理解できたと思っているわけだ。新婚時の祝祭のような料理から炙っただけの椎茸に至るまでの短くはない夫婦の歴史が、皿の上の数片の椎茸によって一撃で語られているのである。俳誌「船団」(第86号・2010年9月刊)所載。(清水哲男)


September 1292010

 秋風や何為さば時みたされむ

                           相馬遷子

石の小説だったと思いますが、主人公が休日の前に、今度の休みにはあれもやってこれもやってと、さまざまな予定をたてているというのがありました。しかし、いざ休みの日になってみれば、ぼーっとしているうちに朝も昼も過ぎてしまい、あっというまに夕方になってしまったというのです。たしかにこんな経験は幾度もしているなと思い、というか、わたしの場合など、ほとんどの休日は、予定していたものはいつかできるだろうと次々に先延ばしをして、だらだらと時をすごしているだけです。しかし、だからといって、予定していたものをてきぱきと片付けたとしたらどうかというと、今度はもっとゆっくり疲れを取りたかったなと、日曜日の夜にサザエさんのテーマを聴きながら、別の後悔に襲われることになるのです。本日の句、人としてこの貴重な人生の時間に、いったい何をしていれば心は満たされるかと悩んでいます。何をしたところで、その日にできなかったことが自分を責めてくるのだと、さびしい心を抱えてしまうのは、たしかに秋風の季節に似合いそうです。『現代の俳句』(1993・講談社)所載。(松下育男)




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