「世論」を反映とマスコミ。「世論調査」を反映の間違いだな。(哲




2010ソスN9ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1692010

 新しく忘れるために秋の椅子

                           窪田せつこ

いぶ前の新聞で「知らない事と忘れたという事は違う。忘れることなんか気にしないでただ覚えればいい。そもそも生まれた時からのことをみんな覚えていたら頭がどうかなってしまう」といった言葉が目にとまった。内田百ケン(ケンの表記は門構えに月)だったと思う。もっともこれは学問に関する教えで、砂時計の砂がこぼれおちるように読んだそばから内容を忘れ、薬缶を火にかけていることを忘れ、とりかかろうとしていた用事を忘れてしまう私などとはちょっと事情が違うかもしれない。掲句では「忘れる」不安を一歩進めて、「新しく忘れるために」と言い切ったところがいい。覚えたこともいずれちりちりになってしまうのだから、そんなことは気にせずに椅子に座っておしゃべりをし、本でも読みましょうよ。と、さっぱりした心持ちが秋の爽やかさに通じる。ようやく気温も落ち着いてきて本格的な秋がやってくる。さて新しく忘れるためにお気に入りの椅子に腰かけ図書館で借りてきた本でも広げてみようか。『風』(2009)所収。(三宅やよい)


September 1592010

 横町に横町のあり秋の風

                           渋沢秀雄

っとこさ秋風が感じられる季節にたどりついた。秋風は町ではまず大きな通りを吹き抜けて行く。つづいて大通りから入った横町へ走りこみ、さらに横町と横町を結ぶ小路や抜け裏へとこまやかに走りこんで行く。横町につながる横町もあって、風は町内に隈なく秋を告げてまわるだろう。あれほど暑かった夏もウソのように過ぎ去って、横町では誰もが涼しい風を受け入れて、「ようやく秋だねえ」「秋になったなあ。さて…」と今さらのように一息入れて、横町から横町へと連なるわが町内を改めて実感しているだろう。味も素っ気もない大通りではなく、横町が細かく入りくんでいる町の、人間臭い秋の風情へと想像は広がる。落語の世界ではないが、やはりご隠居さんは大通りではなく横町に住んでこそ、サマになるというものである。裏長屋から八つぁん熊さんが、風に転がるようにして飛び出してきそうでもある。秋風が横町と横町をつなぐだけでなく、そこに住む人と人をもつないで行く。秀雄は「渋亭」の俳号をもち、徳川夢声、秦豊吉らと「いとう句会」のメンバーだった。他に「北風の吹くだけ吹きし星の冴え」「うすらひに水鳥の水尾きてゆるゝ」等がある。平井照敏編『新歳時記』(1996)所載。(八木忠栄)


September 1492010

 なみなみと大きく一つ芋の露

                           岩田由美

の露とは、七夕の朝、里芋の葉の露を集めて墨をすり、短冊に願いを書くと美しい文字が書けるようになるという故事からなるが、飯田蛇笏の〈芋の露連山影を正しうす〉以降、写生句として扱われることの方が多くなった。それでも「露」が背景に色濃く持つ、はかなく変化の多い世という嘆きが、芋の露に限って薄まるのは、つややかな里芋の葉に溌剌とした大粒の露がころんと転がる姿に、健康的な美しさを見出すからだろう。里芋の葉の表面にはごく細かなぶつぶつがあり、これにより超撥水性と呼ばれる効果を発揮する。水滴は球体でありながら葉にはぴったりと吸い付いて、なかなかこぼれ落ちないという不思議な仕組みがあるらしい。そしてなにより、いかにも持ちやすそうな茎の先に広がるかたちは、トトロやコロボックルたちの傘や雨宿り場所としても定番であったことから、どこか懐かしく、童話的な空気が漂う。句集のなかの掲句は〈追ひあうて一つになりぬ芋の露〉につづき、きらきらとした露の世界を広げている。芋の葉の真ん中に収まる露は、未来を占う水晶玉のごとく、朝の一番美しいひとときを映し出していることだろう。『花束』(2010)所収。(土肥あき子)




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