川越は水が良いので稲作が盛んだ。この傍らに父の病院がある。(哲




2010ソスN9ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1792010

 秋の夜のラジオの長き黙つづく

                           山口誓子

んな句を昭和19年に作ることができた誓子の頭の中はどういうことになっていたのか。型の上のホトトギス調はない。ここには文語か口語かの識別の表現はない。季語はあるが秋の夜の定番情緒がテーマに置かれているわけではない。いわゆる従来の俳句的情緒も皆無。それでいて昭和初期の現代詩を模倣したモダニズムもない。ベレー帽などかぶったモボ、モガのダンディズムが見られない。ここで見出されている「詩」は完全に誓子が初めて俳句にもたらしたものだ。新しいポエジーなのに難解さは無い。ああ、こんなことが俳句で言えたのだと、言われてみると簡単なことのように思える。誰も出来なかった「簡単」なこと。まさしく当時の俳句の最前線に立った誓子のポエジーは今でも最前線のままだ。『激浪』(1944)所収。(今井 聖)


September 1692010

 新しく忘れるために秋の椅子

                           窪田せつこ

いぶ前の新聞で「知らない事と忘れたという事は違う。忘れることなんか気にしないでただ覚えればいい。そもそも生まれた時からのことをみんな覚えていたら頭がどうかなってしまう」といった言葉が目にとまった。内田百ケン(ケンの表記は門構えに月)だったと思う。もっともこれは学問に関する教えで、砂時計の砂がこぼれおちるように読んだそばから内容を忘れ、薬缶を火にかけていることを忘れ、とりかかろうとしていた用事を忘れてしまう私などとはちょっと事情が違うかもしれない。掲句では「忘れる」不安を一歩進めて、「新しく忘れるために」と言い切ったところがいい。覚えたこともいずれちりちりになってしまうのだから、そんなことは気にせずに椅子に座っておしゃべりをし、本でも読みましょうよ。と、さっぱりした心持ちが秋の爽やかさに通じる。ようやく気温も落ち着いてきて本格的な秋がやってくる。さて新しく忘れるためにお気に入りの椅子に腰かけ図書館で借りてきた本でも広げてみようか。『風』(2009)所収。(三宅やよい)


September 1592010

 横町に横町のあり秋の風

                           渋沢秀雄

っとこさ秋風が感じられる季節にたどりついた。秋風は町ではまず大きな通りを吹き抜けて行く。つづいて大通りから入った横町へ走りこみ、さらに横町と横町を結ぶ小路や抜け裏へとこまやかに走りこんで行く。横町につながる横町もあって、風は町内に隈なく秋を告げてまわるだろう。あれほど暑かった夏もウソのように過ぎ去って、横町では誰もが涼しい風を受け入れて、「ようやく秋だねえ」「秋になったなあ。さて…」と今さらのように一息入れて、横町から横町へと連なるわが町内を改めて実感しているだろう。味も素っ気もない大通りではなく、横町が細かく入りくんでいる町の、人間臭い秋の風情へと想像は広がる。落語の世界ではないが、やはりご隠居さんは大通りではなく横町に住んでこそ、サマになるというものである。裏長屋から八つぁん熊さんが、風に転がるようにして飛び出してきそうでもある。秋風が横町と横町をつなぐだけでなく、そこに住む人と人をもつないで行く。秀雄は「渋亭」の俳号をもち、徳川夢声、秦豊吉らと「いとう句会」のメンバーだった。他に「北風の吹くだけ吹きし星の冴え」「うすらひに水鳥の水尾きてゆるゝ」等がある。平井照敏編『新歳時記』(1996)所載。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます