September 222010
山径にあけび喰うて秋深し
白鳥省吾
あけびは「通草」「木通」と書き、秋の季語だから掲句は季重なりということになる。まあ、そんなことはともかく、ペットボトルの携行など考えられなかった時代、旅先であろうか、山径でたまたま見つけたあけびをもぎとって食べ、乾いたのどを潤したのであろう。その喜び、安堵感。「喰(くろ)うて」という無造作な行為・表現が、その様子を伝えている。喰うて一服しながら、今さらのように秋色の深さを増してきている山径で、感慨を覚えているのかもしれない。自生のあけびを見つけたり、なかば裂開しておいしそうに熟した果肉を食べた経験のある人は、今や少なくなっているだろう。子どもの頃、表皮がまだ紫色に熟していないあけびを裏山からもぎ取ってきて、よく米櫃の米のなかにつっこんでおいた。しばらくして食べごろになるのだった。白くて甘い胎座に黒くて小粒の種が埋まっている。あっさりした素朴な甘い味わいと、珍しい山の幸がうれしかった。種からは油をとるし、表皮は天ぷら、肉詰め、漬物にしたりして山菜料理として味わうことができる。蔓は生薬にしたり、乾燥させて篭などの工芸品として利用されるなど、使いみちは広い。あけびは山形県が圧倒的生産量を誇るようだが、同地方では、彼岸には先祖の霊が「あけびの舟」にのって帰ってくる――という可愛い言い伝えもあって、あけびを先祖に供える風習があったとか。飯田龍太に「夕空の一角かつと通草熟れ」の句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
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