中国のヒステリックな高圧的姿勢は解せない。大人の国なのに。(哲




2010ソスN9ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2492010

 夢見ざる眠りまつくら神の旅

                           小川軽舟

暦10月神々が出雲大社に集まるために旅をすることを「神の旅」というのだが、どうも趣味的というか、極めて特殊な季語に思えて僕自身は用いたことはない。神道の熱心な信者でもないかぎりそんなことをつくづくとは思わないだろうから、これはキリスト教の聖何々祭というのと同様だろうというと、そんなことはない、日本の民衆の歴史の中に神事は今日まで具体的に生きていると反論されることもある。しかしである。俳句が神社仏閣を詠い、特殊な俳句的情緒を演出するために用いられてきたというのも事実である。どうしても「神の旅」を詠いたければ、方法の選択は二つ考えられる。ひとつは正攻法。「神の旅」の本意を十分に探った上で、そこに自分の独自の感覚や理解を付加することだ。もう一つは「神」の「旅」というふうに季語を分解してふつうの言葉として使うこと。これはどんな神のどんな旅でもいいということ。しかし、この場合、神の旅は厳密に言えば季語にならないだろう。僕はこの句は後者だと思う。作者の思念の中にある神は日本の神事の中の神に限定されない。夢を見ないのも眠りがまっくらだったと「思う」のも作者自身の思い。そういう意味ではこの「神」は作者自身にも思えてくる。我等人間一人一人が実は神なのだという認識にも通じてくる。『シリーズ自句自解1ベスト100小川軽舟』(2010)所収。(今井 聖)


September 2392010

 満月のあめりかにゐる男の子

                           小林苑を

日は満月。時差はあれ、世界中の人が同じ月を見るんだなぁ、そう思うと甘酸っぱい気持ちになる。考えれば太陽だって同じなのに、そんなふうに感じないのはなぜだろう。「空にいる月のふしぎをどうしよう」という岡田幸生の句の通り夜空にかかる月は神秘的な力を感じさせる。掲句「満月の」の「の」は「あめりか」にかかるのではなく、上五でいったん軽く切れると読んだ。自分が見上げている月をアメリカの男の子が見上げている様子を想像しているのだろう。例えばテキサスの荒野に、ニューヨークの摩天楼の窓辺にその子は佇んでいるのかもしれない。この句の作者は少女の心持ちになって、同じ月を見上げる男の子へ恋文を送る気分でまんまるいお月様を見上げている。「あめりか」の男の子にちょっと心ときめかせながら。カタカナで見慣れた国名のひらがな表記が現実とはちょっと違う童話の世界を思わせる。『点る』(2010)所収。(三宅やよい)


September 2292010

 山径にあけび喰うて秋深し

                           白鳥省吾

けびは「通草」「木通」と書き、秋の季語だから掲句は季重なりということになる。まあ、そんなことはともかく、ペットボトルの携行など考えられなかった時代、旅先であろうか、山径でたまたま見つけたあけびをもぎとって食べ、乾いたのどを潤したのであろう。その喜び、安堵感。「喰(くろ)うて」という無造作な行為・表現が、その様子を伝えている。喰うて一服しながら、今さらのように秋色の深さを増してきている山径で、感慨を覚えているのかもしれない。自生のあけびを見つけたり、なかば裂開しておいしそうに熟した果肉を食べた経験のある人は、今や少なくなっているだろう。子どもの頃、表皮がまだ紫色に熟していないあけびを裏山からもぎ取ってきて、よく米櫃の米のなかにつっこんでおいた。しばらくして食べごろになるのだった。白くて甘い胎座に黒くて小粒の種が埋まっている。あっさりした素朴な甘い味わいと、珍しい山の幸がうれしかった。種からは油をとるし、表皮は天ぷら、肉詰め、漬物にしたりして山菜料理として味わうことができる。蔓は生薬にしたり、乾燥させて篭などの工芸品として利用されるなど、使いみちは広い。あけびは山形県が圧倒的生産量を誇るようだが、同地方では、彼岸には先祖の霊が「あけびの舟」にのって帰ってくる――という可愛い言い伝えもあって、あけびを先祖に供える風習があったとか。飯田龍太に「夕空の一角かつと通草熟れ」の句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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