いきなり秋の真ん中。スカパラでも聞いてスカッと行こう。(哲




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September 2592010

 秋暑しすこやかなればめぐり合ひ

                           松本つや女

の句の前に〈夕顔に病み臥す人と物語〉〈堂縁に伏して物書く秋の風〉と続いている。いずれも、夫たかしを詠んでいるのだろう。一句目の物語、二句目の秋の風、共に過ごす時間に同じ風が吹いている。終生病弱であったたかし、病が進んでも衰えた様子を見せるのを嫌い、つや女にも、取り乱すことの無いようにと常々言っていたという。貴公子、と呼ばれたたかしだが、長く身の回りの世話をし、やがて一緒になったつや女には素顔のたかしが見えていたのだろう。残暑より少し秋の色合いの強い、秋暑し。まだ暑いながら時に秋風も立つ。この夏もなんとかのりきったなと一息つきながら、一瞬過去へ思いが巡ったのだろう。すこやか、の一語から、こめるともなくこもる思いが伝わってくる。『現代俳句全集 第一巻』(1953・創元社)所載。(今井肖子)


September 2492010

 夢見ざる眠りまつくら神の旅

                           小川軽舟

暦10月神々が出雲大社に集まるために旅をすることを「神の旅」というのだが、どうも趣味的というか、極めて特殊な季語に思えて僕自身は用いたことはない。神道の熱心な信者でもないかぎりそんなことをつくづくとは思わないだろうから、これはキリスト教の聖何々祭というのと同様だろうというと、そんなことはない、日本の民衆の歴史の中に神事は今日まで具体的に生きていると反論されることもある。しかしである。俳句が神社仏閣を詠い、特殊な俳句的情緒を演出するために用いられてきたというのも事実である。どうしても「神の旅」を詠いたければ、方法の選択は二つ考えられる。ひとつは正攻法。「神の旅」の本意を十分に探った上で、そこに自分の独自の感覚や理解を付加することだ。もう一つは「神」の「旅」というふうに季語を分解してふつうの言葉として使うこと。これはどんな神のどんな旅でもいいということ。しかし、この場合、神の旅は厳密に言えば季語にならないだろう。僕はこの句は後者だと思う。作者の思念の中にある神は日本の神事の中の神に限定されない。夢を見ないのも眠りがまっくらだったと「思う」のも作者自身の思い。そういう意味ではこの「神」は作者自身にも思えてくる。我等人間一人一人が実は神なのだという認識にも通じてくる。『シリーズ自句自解1ベスト100小川軽舟』(2010)所収。(今井 聖)


September 2392010

 満月のあめりかにゐる男の子

                           小林苑を

日は満月。時差はあれ、世界中の人が同じ月を見るんだなぁ、そう思うと甘酸っぱい気持ちになる。考えれば太陽だって同じなのに、そんなふうに感じないのはなぜだろう。「空にいる月のふしぎをどうしよう」という岡田幸生の句の通り夜空にかかる月は神秘的な力を感じさせる。掲句「満月の」の「の」は「あめりか」にかかるのではなく、上五でいったん軽く切れると読んだ。自分が見上げている月をアメリカの男の子が見上げている様子を想像しているのだろう。例えばテキサスの荒野に、ニューヨークの摩天楼の窓辺にその子は佇んでいるのかもしれない。この句の作者は少女の心持ちになって、同じ月を見上げる男の子へ恋文を送る気分でまんまるいお月様を見上げている。「あめりか」の男の子にちょっと心ときめかせながら。カタカナで見慣れた国名のひらがな表記が現実とはちょっと違う童話の世界を思わせる。『点る』(2010)所収。(三宅やよい)




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