September 272010
日本がすつぽり入る秋の暮
後藤信雄
この句に抒情を感じるか否か。それは読者の年代によって分かれるところだろう。言っていることは、たとえば『百人一首』にある「寂しさに宿を立ち出でて眺むればいづこも同じ秋の夕暮」(良暹法師)に通じている。「日本中いずこも」秋の夕暮なのである。ただ両者が決定的に異なるのは、夕暮を眺める視点である。良暹法師は水平的に見ており、句の作者は俯瞰的に見ている。俯瞰的に景色などを眺める感覚は、この一世紀くらいの間に目覚ましく開発されてきた。言うまでもなく、それは人間の俯瞰能力や想像力が飛行機の発達や衛星の登場によって進化してきたからだ。飛行機のなかった時代の人は、せいぜいが鳥の目を想像するくらいでしかなかったけれど、今では「地球は青かった」と誰もが言える時代である。とはいえ、青い地球を理屈としてではなくそのまま自分の感性に取りこむ能力は、私などよりもずっと若い世代に属しているのだと思う。だから、そんな若い読者がこの句に良暹法師のような抒情を感じたとしても不思議ではない。作者の意図はどうであれ、この句をまず理屈として受けとってしまう世代の感性の限界を、少なくとも私は感じてしまった。『冬木町』(2010)所収。(清水哲男)
February 112011
立春の大口あけし旅鞄
後藤信雄
立春と旅のつながりはむしろ類型的。この類型感を「詩」に押し戻すのは「大口あけし」だろう。鞄というものの手触りが伝わりユーモアも感じられる。また、意外に意識されないのが一句の文字数。この句は十文字である。文字数が多いと散文的な、冗漫な印象につながり、少ないと句が凝固して締まった印象になる。十文字は後者。『冬木町』(2010)所収。(今井 聖)
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