猛暑が去ってほっとしたのも束の間、今度は秋の長雨に。(哲




2010ソスN9ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2892010

 こほろぎとゐて木の下に暮らすやう

                           飯田 晴

の声を聞きながら夜を過ごすのにもすっかり慣れてきたこの頃である。都内のわが家で聞くことができるのは、青松虫(アオマツムシ)がほとんどだが、夜が深まるにつれ蟋蟀(コオロギ)や鉦叩(カネタタキ)の繊細な声も響いてくる。掲句にイメージをゆだね、眼をつむってしばし大好きな欅にもたれてみることにした。一本の木を鳥や虫たちと分け合い、それぞれの声に耳を傾ける。昼は茂る葉の向こうに雲を追い、夜は星空を仰いで暮らしている。食事はいろんな木の実と、そこらへんを歩いている山羊の乳など頂戴しよう。ときどきは川で魚も釣ろう。などと広がる空想のあまりの心地の良さに、絶え間なく通過する首都高の車の音さえ途絶えた。束の間の楽園生活を終えたあとも、虫の声は力強く夜を鳴き通している。〈空蝉のふくらみ二つともまなこ〉〈小春日の一寸借りたき赤ん坊〉『たんぽぽ生活』(2010)所収。(土肥あき子)


September 2792010

 日本がすつぽり入る秋の暮

                           後藤信雄

の句に抒情を感じるか否か。それは読者の年代によって分かれるところだろう。言っていることは、たとえば『百人一首』にある「寂しさに宿を立ち出でて眺むればいづこも同じ秋の夕暮」(良暹法師)に通じている。「日本中いずこも」秋の夕暮なのである。ただ両者が決定的に異なるのは、夕暮を眺める視点である。良暹法師は水平的に見ており、句の作者は俯瞰的に見ている。俯瞰的に景色などを眺める感覚は、この一世紀くらいの間に目覚ましく開発されてきた。言うまでもなく、それは人間の俯瞰能力や想像力が飛行機の発達や衛星の登場によって進化してきたからだ。飛行機のなかった時代の人は、せいぜいが鳥の目を想像するくらいでしかなかったけれど、今では「地球は青かった」と誰もが言える時代である。とはいえ、青い地球を理屈としてではなくそのまま自分の感性に取りこむ能力は、私などよりもずっと若い世代に属しているのだと思う。だから、そんな若い読者がこの句に良暹法師のような抒情を感じたとしても不思議ではない。作者の意図はどうであれ、この句をまず理屈として受けとってしまう世代の感性の限界を、少なくとも私は感じてしまった。『冬木町』(2010)所収。(清水哲男)


September 2692010

 夫と来てはなればなれに美術展

                           龍神悠紀子

そらくこの夫婦は、新婚まもなくではなく、結婚してからかなりの月日を過ごした後なでしょう。私自身のことを考えても、結婚前のデートでは、彼女を誘ってしばしばしゃれた美術館へ、見たこともない画家の絵を無理して観に行ったことはあります。しかし、いったんその人と結婚してしまえば、子育てだ、住宅ローンだ、子供の受験だと、次々にやって来る出来事の波を乗り切るのが精一杯で、妻とゆっくりと美術展に行ったことなど思い出せません。子供が大きくなり、手を離れてから、ふっとできた時間の中で、夫婦の足は再びこのようなところへ向くようになるのでしょう。それでも独身時代とは違って、一緒に並んで観て回るなんて、余計な気を遣う必要はもうないのです。絵がつまらないと思えばさっさと次の展示物へ行ってしまうし、あるいは妻が先へ行ったところで、自分がじっくり観たいものはそれなりに時間をかけて観ることができるわけです。ああ、こんなふうに二人ではなればなれになることもできるのだなと、それまでの時間の重なりのあたたかさを、絵とともに見つめることができるのです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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