cTv句

September 2992010

 人棲まぬ隣家の柚子を仰ぎけり

                           横光利一

ういう事情でお隣は空家になったのかはわからない。けれども、敷地にある大きな柚子の木が香り高い実をたくさんつけているから、秋の気配が濃厚に感じられる。かつてそこに住んでいた人が丹精して育てあげた柚子の木なのだろう。柚子を見上げている作者は、今はいなくなった隣人へのさまざまな思いも、同時に抱いているにちがいない。今の時季だと散歩の途次、柚子の木が青々とした実をつけているのに出くわす機会が多い。しばし見とれてしまって、その家の住人への想いにまで浸ることがある。どうか通りがかりの心ない人に盗られたりしませんように、などと余計なことを願ってみたりもする。小ぶりなかたちとその独特な香気と酸味は誰にも好まれるだけでなく、重宝な果実として日本料理の薬味としても欠かせない。柚子味噌、柚子湯、柚子酢、柚子茶、柚子餅、ゆべし、柚子胡椒……さらに「柚子酒」という乙な酒もある。『本朝食鑑』には「皮を刮り、片を作し、酒に浮かぶときは、酒盃にすなはち芳気あひ和して、最も佳なり」とある。さっそく今夜あたり、ちょいと気取って試してみましょうぞ。柚子の句には「美しき指の力よ柚子しぼる」(粟津松彩子)「柚子の村少女と老婆ひかり合ふ」(多田裕計)などがある。利一はたくさんの俳句を残した作家である。「白菊や膝冷えて来る縁の先」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 1992012

 湾かけて風の名月飛ぶごとし

                           多田裕計

の場合の「かけて」は「懸けて」の意味であろう。たとえば東京湾でも伊勢湾でもいいけれど、大きな港湾を股にかけて風がダイナミックに吹きわたっている。夜空には名月が皓々と出ていて、まるで風にあおられて今にも飛ばされんばかり、というそんな光景である。「湾」という大きさに「飛ぶごとし」というスピードが加わって、句柄は壮大である。あるいは、少し乱暴な解釈になるけれど、「かけて」を「駆けて」と解釈してみたい気もしてくる。湾上を風が疾駆し、名月も吹き飛ばされんばかりである。ーー実際にはあり得ないことだろうが、文芸作品としては許される解釈ではないだろうか。風も名月も湾上を飛ぶなんて愉快ではないか。なにせ俳句は、亀が鳴いたり、山が眠ったり笑ったりする世界なのだから。そんなところにも俳句のすばらしさはある。蛙が古池に飛びこんだくらいで驚いてはいられない。裕計は俳句雑誌「れもん」を主宰した芥川賞作家で、他に「夢裂けて月の氷柱の響き落つ」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます