無駄な抵抗だけど、煙草を何カートンか買っておこう。(哲




2010ソスN9ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2992010

 人棲まぬ隣家の柚子を仰ぎけり

                           横光利一

ういう事情でお隣は空家になったのかはわからない。けれども、敷地にある大きな柚子の木が香り高い実をたくさんつけているから、秋の気配が濃厚に感じられる。かつてそこに住んでいた人が丹精して育てあげた柚子の木なのだろう。柚子を見上げている作者は、今はいなくなった隣人へのさまざまな思いも、同時に抱いているにちがいない。今の時季だと散歩の途次、柚子の木が青々とした実をつけているのに出くわす機会が多い。しばし見とれてしまって、その家の住人への想いにまで浸ることがある。どうか通りがかりの心ない人に盗られたりしませんように、などと余計なことを願ってみたりもする。小ぶりなかたちとその独特な香気と酸味は誰にも好まれるだけでなく、重宝な果実として日本料理の薬味としても欠かせない。柚子味噌、柚子湯、柚子酢、柚子茶、柚子餅、ゆべし、柚子胡椒……さらに「柚子酒」という乙な酒もある。『本朝食鑑』には「皮を刮り、片を作し、酒に浮かぶときは、酒盃にすなはち芳気あひ和して、最も佳なり」とある。さっそく今夜あたり、ちょいと気取って試してみましょうぞ。柚子の句には「美しき指の力よ柚子しぼる」(粟津松彩子)「柚子の村少女と老婆ひかり合ふ」(多田裕計)などがある。利一はたくさんの俳句を残した作家である。「白菊や膝冷えて来る縁の先」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 2892010

 こほろぎとゐて木の下に暮らすやう

                           飯田 晴

の声を聞きながら夜を過ごすのにもすっかり慣れてきたこの頃である。都内のわが家で聞くことができるのは、青松虫(アオマツムシ)がほとんどだが、夜が深まるにつれ蟋蟀(コオロギ)や鉦叩(カネタタキ)の繊細な声も響いてくる。掲句にイメージをゆだね、眼をつむってしばし大好きな欅にもたれてみることにした。一本の木を鳥や虫たちと分け合い、それぞれの声に耳を傾ける。昼は茂る葉の向こうに雲を追い、夜は星空を仰いで暮らしている。食事はいろんな木の実と、そこらへんを歩いている山羊の乳など頂戴しよう。ときどきは川で魚も釣ろう。などと広がる空想のあまりの心地の良さに、絶え間なく通過する首都高の車の音さえ途絶えた。束の間の楽園生活を終えたあとも、虫の声は力強く夜を鳴き通している。〈空蝉のふくらみ二つともまなこ〉〈小春日の一寸借りたき赤ん坊〉『たんぽぽ生活』(2010)所収。(土肥あき子)


September 2792010

 日本がすつぽり入る秋の暮

                           後藤信雄

の句に抒情を感じるか否か。それは読者の年代によって分かれるところだろう。言っていることは、たとえば『百人一首』にある「寂しさに宿を立ち出でて眺むればいづこも同じ秋の夕暮」(良暹法師)に通じている。「日本中いずこも」秋の夕暮なのである。ただ両者が決定的に異なるのは、夕暮を眺める視点である。良暹法師は水平的に見ており、句の作者は俯瞰的に見ている。俯瞰的に景色などを眺める感覚は、この一世紀くらいの間に目覚ましく開発されてきた。言うまでもなく、それは人間の俯瞰能力や想像力が飛行機の発達や衛星の登場によって進化してきたからだ。飛行機のなかった時代の人は、せいぜいが鳥の目を想像するくらいでしかなかったけれど、今では「地球は青かった」と誰もが言える時代である。とはいえ、青い地球を理屈としてではなくそのまま自分の感性に取りこむ能力は、私などよりもずっと若い世代に属しているのだと思う。だから、そんな若い読者がこの句に良暹法師のような抒情を感じたとしても不思議ではない。作者の意図はどうであれ、この句をまず理屈として受けとってしまう世代の感性の限界を、少なくとも私は感じてしまった。『冬木町』(2010)所収。(清水哲男)




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