今月は10日に仙台文学館行き。今年最後の遠出になりそう。(哲




2010ソスN10ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 01102010

 匂はねばもう木犀を忘れたる

                           金田咲子

ういうのを実存傾向とでもいおうか。僕など加藤楸邨の体臭を感じてしまうがそれは個人的なこと。人は五感によって生を体感して生きている。ここにあるのは嗅覚の強調。木犀は見えてはいるのだが、匂わない限りは見えてはいても見られることはない。存在に気づかれることはないのだ。俳句は往々にしてここから箴言に入る。たとえば、個性を発揮していないと忘れられがちであるというふうに。そうすると木犀自体のあの甘いナマの匂いの実感が薄れてしまう。言葉通りまず実感を十分に味読してから箴言でもどこへでも飛べばいい。その順序が大切。『季別季語辞典』(2002)所載。(今井 聖)


September 3092010

 どこまでも雨の背高泡立草

                           小西昭夫

かし国鉄と呼んでいた頃、線路脇に延々とこの雑草が茂っていた。濁った黄色の花を三角に突き立てる姿は、荒々しいばかりでちっとも好きじゃなかった。戦後進駐軍が持ち込み、爆発的に広がったという話を耳にしたことがある。今住んでいる関東近辺ではあまり見かけないが、他ではどうなのだろう。カタカナの語感で呼びならしていたこの雑草も漢字で書くと、猛々しさが消え淡く優しい秋草の雰囲気を醸し出すようだ。「どこまでも」が降り続く雨と群生する植物の両方にかかりあてどない寂しさを感じさせる。「背高泡立草」は降りしきる雨に人の群れのように立ちつくしているのだろう。それにしても晴れれば照りつけ、降ればどしゃ降りの最近の天候には可憐な表記ではなく「セイタカアワダチソウ」が似合いかもしれない。『小西昭夫句集』(2010)所収。(三宅やよい)


September 2992010

 人棲まぬ隣家の柚子を仰ぎけり

                           横光利一

ういう事情でお隣は空家になったのかはわからない。けれども、敷地にある大きな柚子の木が香り高い実をたくさんつけているから、秋の気配が濃厚に感じられる。かつてそこに住んでいた人が丹精して育てあげた柚子の木なのだろう。柚子を見上げている作者は、今はいなくなった隣人へのさまざまな思いも、同時に抱いているにちがいない。今の時季だと散歩の途次、柚子の木が青々とした実をつけているのに出くわす機会が多い。しばし見とれてしまって、その家の住人への想いにまで浸ることがある。どうか通りがかりの心ない人に盗られたりしませんように、などと余計なことを願ってみたりもする。小ぶりなかたちとその独特な香気と酸味は誰にも好まれるだけでなく、重宝な果実として日本料理の薬味としても欠かせない。柚子味噌、柚子湯、柚子酢、柚子茶、柚子餅、ゆべし、柚子胡椒……さらに「柚子酒」という乙な酒もある。『本朝食鑑』には「皮を刮り、片を作し、酒に浮かぶときは、酒盃にすなはち芳気あひ和して、最も佳なり」とある。さっそく今夜あたり、ちょいと気取って試してみましょうぞ。柚子の句には「美しき指の力よ柚子しぼる」(粟津松彩子)「柚子の村少女と老婆ひかり合ふ」(多田裕計)などがある。利一はたくさんの俳句を残した作家である。「白菊や膝冷えて来る縁の先」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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