仙台での写真はわずかに5カット。こんな写真も数に入れて。(哲




2010ソスN10ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 12102010

 爽やかに鼻あり顔の真ん中に

                           小西昭夫

目漱石や芥川龍之介といった時代の小説に、時折「中高(なかだか)な顔」という形容が登場する。これが鼻筋の通った整った面差しを表すと知ったとき、細面(ほそおもて)やぱっちりした瞳という従来の美形とはひと味違った、立体的な造作が浮かぶ。フランスの哲学者パスカルの「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史が変わっていた」という一節も、顔という看板の中心に位置する鼻であるからこそ、一層のインパクトを与えたのだろう。掲句の通り、たしかに鼻は顔の中央にあり、もっとも高い場所をかたち作っているため、夏の熱気も冬のこがらしにも、一等先にさらされている。そして、嗅覚は人間の五感のなかで唯一、誕生してから機能する器官だというが、この時期、ある朝突然金木犀の香りにあたり一面が包まれている幸せを感じられるのも鼻の手柄である。深く呼吸すれば、広がる香りが頭の先まで届き、そして体中に行き渡る。老若男女すべからく顔の真ん中に鼻を据え、いまもっとも心地よい日本の秋を堪能している。『小西昭夫句集』(2010)所収。(土肥あき子)


October 11102010

 決められた席よりみたる芒かな

                           櫻井ゆか

者は京都在住だから、日本庭園のある料亭での会合の席でのことだろうか。いささか格式ばった会なので、あらかじめ座る席は決められていたのだろう。たぶん、庭園に正対する席ではない。庭を拝見するためには、少し首を曲げねばならないくらいの位置だ。そこからそうやって庭を眺めていると、見事な芒(すすき)が風に揺れていた。けれども、作者の位置からでは芒全体の姿を見ることはできなかったようだ。そんな中途半端な見え方ではあったが、何かにつけてその折の芒の印象が鮮やかによみがえってくるというのである。人の記憶というのは面白いもので、必ずしもよく見えたものや聞こえたものを鮮明に覚えているとは限らない。むしろ部分的にとか中途半端に見たり聞いたりしたものが鮮明に思い出されることがある。そのような記憶の不思議なメカニズムを、この句はさりげなく提出している。一見なんでもないような句だけれど、なかなかに感性の鋭い作品だと受け取れた。『いつまでも』(2010)所収。(清水哲男)


October 10102010

 さびしさはどれも劣らず虫合

                           北 虎

夜10時になると、犬の散歩に出かけるわたしは、このごろ確かに虫の涼やかな声を聞くことが多くなりました。坂道の途中で犬が、理由もなく急に立ち止まると、やることもなくその場で虫の声に聞き入ってしまいます。今日の句、虫合は「むしあわせ」と読みます。平安時代に、郊外に出かけて鳴き声のいい虫を捕り、宮中に奉ったことを「虫選(むしえらび)」と言い、虫の声のよしあしを合わせて遊ぶことを虫合というと、歳時記に説明がありました。なるほど、今ほど刺激的な時間のつかい方がなかった時代には、草づくしだの、虫合だの、じかに手で自然に触れて、そのまわりでささやかな楽しみを見つけていたようです。今日の句では、虫たちが競っている響きのよい声を、「さびしさ」に置き換えています。秋の虫の声そのものにさびしさを感じるだけではなく、一生を美しく鳴き通すことをも、さびしいといっているかのようです。そういえばこのさびしさは、どんな遊びに興じた後にも襲ってくるさびしさと、通じるものがあるのかもしれません。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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