娘が家を出て行く日。言い換えれば「自立」する日。(哲




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October 13102010

 全山をさかさまにして散る紅葉

                           岡田芳べえ

年は猛暑のせいで曼珠沙華の開花が遅かった、と先日のテレビが報道していた。紅葉はどうなのだろうか? 直近の情報をよく確認して出かけたほうがよさそう。紅葉は地域によってまちまちだが、今はまだ「散る」というタイミングではないのかもしれない。たしかに紅葉は木の枝から地上へ、つまり天から地へと散るわけだけれども、芳ベえは天地をひっくり返してみせてくれた。そこに俳句としてのおもしろさが生まれた。自分ではなく対象をひっくり返したところがミソ。風景をさかさまにすれば、紅葉は〈地上なる天〉から〈天なる地上〉に散ることになるわけだ。山火事のごとくみごとに紅葉している全山を、ダイナミックにひっくり返してしまったのである。天地を逆転させた、そんな紅葉狩りも愉快ではないか。作者はふざけているのではなく、大真面目にこの句を詠んだにちがいない。芳べえ(本名:芳郎)は詩人・文筆家。「俳句をつかんだと思った時期もあったが、それは一瞬ですぐ消えた。つかめないままそれでも魅力を感じるので離れられない」と述懐している。まったくその通り、賛同できますなあ。他に「暮の秋走る姿勢で寝る女」「鍋が待つただそれだけの急ぎ足」などがある。「毬音」(2005)所載。(八木忠栄)


October 12102010

 爽やかに鼻あり顔の真ん中に

                           小西昭夫

目漱石や芥川龍之介といった時代の小説に、時折「中高(なかだか)な顔」という形容が登場する。これが鼻筋の通った整った面差しを表すと知ったとき、細面(ほそおもて)やぱっちりした瞳という従来の美形とはひと味違った、立体的な造作が浮かぶ。フランスの哲学者パスカルの「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史が変わっていた」という一節も、顔という看板の中心に位置する鼻であるからこそ、一層のインパクトを与えたのだろう。掲句の通り、たしかに鼻は顔の中央にあり、もっとも高い場所をかたち作っているため、夏の熱気も冬のこがらしにも、一等先にさらされている。そして、嗅覚は人間の五感のなかで唯一、誕生してから機能する器官だというが、この時期、ある朝突然金木犀の香りにあたり一面が包まれている幸せを感じられるのも鼻の手柄である。深く呼吸すれば、広がる香りが頭の先まで届き、そして体中に行き渡る。老若男女すべからく顔の真ん中に鼻を据え、いまもっとも心地よい日本の秋を堪能している。『小西昭夫句集』(2010)所収。(土肥あき子)


October 11102010

 決められた席よりみたる芒かな

                           櫻井ゆか

者は京都在住だから、日本庭園のある料亭での会合の席でのことだろうか。いささか格式ばった会なので、あらかじめ座る席は決められていたのだろう。たぶん、庭園に正対する席ではない。庭を拝見するためには、少し首を曲げねばならないくらいの位置だ。そこからそうやって庭を眺めていると、見事な芒(すすき)が風に揺れていた。けれども、作者の位置からでは芒全体の姿を見ることはできなかったようだ。そんな中途半端な見え方ではあったが、何かにつけてその折の芒の印象が鮮やかによみがえってくるというのである。人の記憶というのは面白いもので、必ずしもよく見えたものや聞こえたものを鮮明に覚えているとは限らない。むしろ部分的にとか中途半端に見たり聞いたりしたものが鮮明に思い出されることがある。そのような記憶の不思議なメカニズムを、この句はさりげなく提出している。一見なんでもないような句だけれど、なかなかに感性の鋭い作品だと受け取れた。『いつまでも』(2010)所収。(清水哲男)




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