昨日はチリの救出中継をUSTREAMでずうっと見ていた。(哲




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October 14102010

 傷林檎君を抱けない夜は死にたし

                           北大路翼

愛は自分で制御しがたい切迫した感情であるがゆえに、定型をはみ出したフレーズに実感がこもる。二人でいる時に言葉は必要ないだろうが、相手の存在を確かめられない夜に湧きあがる不安と苛立ちがそのまま言葉になった感触がある。一見、七七の短歌的詠嘆にベタな恋愛感情が臆面もなく託されているように思えるが、そう単純でもないだろう。林檎は愛の象徴でもあるが、藤村の初恋とも、降る雪に林檎の香を感じる白秋とも違い、掲句の恋愛にほんのりした甘さや優美さはない。あらかじめ損なわれている「傷林檎」に自分の恋愛を託している。そう思えば恋愛が痛々しさから出発してやがて来る別れを予感しているようで刹那的な言葉が胸にこたえる。『新撰21』(2009)所収。(三宅やよい)


October 13102010

 全山をさかさまにして散る紅葉

                           岡田芳べえ

年は猛暑のせいで曼珠沙華の開花が遅かった、と先日のテレビが報道していた。紅葉はどうなのだろうか? 直近の情報をよく確認して出かけたほうがよさそう。紅葉は地域によってまちまちだが、今はまだ「散る」というタイミングではないのかもしれない。たしかに紅葉は木の枝から地上へ、つまり天から地へと散るわけだけれども、芳ベえは天地をひっくり返してみせてくれた。そこに俳句としてのおもしろさが生まれた。自分ではなく対象をひっくり返したところがミソ。風景をさかさまにすれば、紅葉は〈地上なる天〉から〈天なる地上〉に散ることになるわけだ。山火事のごとくみごとに紅葉している全山を、ダイナミックにひっくり返してしまったのである。天地を逆転させた、そんな紅葉狩りも愉快ではないか。作者はふざけているのではなく、大真面目にこの句を詠んだにちがいない。芳べえ(本名:芳郎)は詩人・文筆家。「俳句をつかんだと思った時期もあったが、それは一瞬ですぐ消えた。つかめないままそれでも魅力を感じるので離れられない」と述懐している。まったくその通り、賛同できますなあ。他に「暮の秋走る姿勢で寝る女」「鍋が待つただそれだけの急ぎ足」などがある。「毬音」(2005)所載。(八木忠栄)


October 12102010

 爽やかに鼻あり顔の真ん中に

                           小西昭夫

目漱石や芥川龍之介といった時代の小説に、時折「中高(なかだか)な顔」という形容が登場する。これが鼻筋の通った整った面差しを表すと知ったとき、細面(ほそおもて)やぱっちりした瞳という従来の美形とはひと味違った、立体的な造作が浮かぶ。フランスの哲学者パスカルの「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史が変わっていた」という一節も、顔という看板の中心に位置する鼻であるからこそ、一層のインパクトを与えたのだろう。掲句の通り、たしかに鼻は顔の中央にあり、もっとも高い場所をかたち作っているため、夏の熱気も冬のこがらしにも、一等先にさらされている。そして、嗅覚は人間の五感のなかで唯一、誕生してから機能する器官だというが、この時期、ある朝突然金木犀の香りにあたり一面が包まれている幸せを感じられるのも鼻の手柄である。深く呼吸すれば、広がる香りが頭の先まで届き、そして体中に行き渡る。老若男女すべからく顔の真ん中に鼻を据え、いまもっとも心地よい日本の秋を堪能している。『小西昭夫句集』(2010)所収。(土肥あき子)




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