チリ救出大作戦。感動大安売りの時代に、これは本物でした。(哲




2010ソスN10ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 15102010

 攫はれるほどの子ならず七五三

                           亀田虎童子

はれるという表現は、歴史的仮名遣いであって現代文法。意識的に口語調を用いたため、こういう折衷の組合わせを採用したのだろう。攫われるほどの子ではないというのは自分の子に対する謙遜だ。学校という現場にいるとだんだん自分の子に対する謙遜が減ってきているのを実感する。自分の子の利益だけを要求するモンスターペアレントと呼ばれる親たちは年々増えてきている。自分のこと身内のことはどんなに謙遜してもいい気がする。愚生、愚息、愚妻といって、ああそうですか愚かな方なんですねと思う人はいない。むしろ逆の印象もある。この子、きっと優秀な子に違いない。『季別季語辞典』(2002)所載。(今井 聖)


October 14102010

 傷林檎君を抱けない夜は死にたし

                           北大路翼

愛は自分で制御しがたい切迫した感情であるがゆえに、定型をはみ出したフレーズに実感がこもる。二人でいる時に言葉は必要ないだろうが、相手の存在を確かめられない夜に湧きあがる不安と苛立ちがそのまま言葉になった感触がある。一見、七七の短歌的詠嘆にベタな恋愛感情が臆面もなく託されているように思えるが、そう単純でもないだろう。林檎は愛の象徴でもあるが、藤村の初恋とも、降る雪に林檎の香を感じる白秋とも違い、掲句の恋愛にほんのりした甘さや優美さはない。あらかじめ損なわれている「傷林檎」に自分の恋愛を託している。そう思えば恋愛が痛々しさから出発してやがて来る別れを予感しているようで刹那的な言葉が胸にこたえる。『新撰21』(2009)所収。(三宅やよい)


October 13102010

 全山をさかさまにして散る紅葉

                           岡田芳べえ

年は猛暑のせいで曼珠沙華の開花が遅かった、と先日のテレビが報道していた。紅葉はどうなのだろうか? 直近の情報をよく確認して出かけたほうがよさそう。紅葉は地域によってまちまちだが、今はまだ「散る」というタイミングではないのかもしれない。たしかに紅葉は木の枝から地上へ、つまり天から地へと散るわけだけれども、芳ベえは天地をひっくり返してみせてくれた。そこに俳句としてのおもしろさが生まれた。自分ではなく対象をひっくり返したところがミソ。風景をさかさまにすれば、紅葉は〈地上なる天〉から〈天なる地上〉に散ることになるわけだ。山火事のごとくみごとに紅葉している全山を、ダイナミックにひっくり返してしまったのである。天地を逆転させた、そんな紅葉狩りも愉快ではないか。作者はふざけているのではなく、大真面目にこの句を詠んだにちがいない。芳べえ(本名:芳郎)は詩人・文筆家。「俳句をつかんだと思った時期もあったが、それは一瞬ですぐ消えた。つかめないままそれでも魅力を感じるので離れられない」と述懐している。まったくその通り、賛同できますなあ。他に「暮の秋走る姿勢で寝る女」「鍋が待つただそれだけの急ぎ足」などがある。「毬音」(2005)所載。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます