入院中の父の誕生日。98歳。意識はあるけれど、わかるかなあ。(哲




2010ソスN10ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 16102010

 虫の夜のコップは水に沈みをり

                           飯田 晴

元の「安野光雅の画集」(1977・講談社)に、「コップへの不可能な接近」(谷川俊太郎)という詩の抜粋が載っている。そこに「それは直立した凹みである」という一行があるのだが、テーブルに置かれた空のコップを見てなるほどと思った。そこに水を注ぐと、あたりまえだけれど水はきちんとコップにおさまり、コップは水を包み守りながら直立し続ける。そんなコップが一日の役目を終え、台所の流しに浸けられている。透明な水がそのうちそとを満たし、力のぬけたコップをいまは水が包んでいるようだ。ひたすらな虫の夜に包まれている作者、夜の厨の風景が虫の音を静かに際立たせている。『たんぽぽ生活』(2010)所収。(今井肖子)


October 15102010

 攫はれるほどの子ならず七五三

                           亀田虎童子

はれるという表現は、歴史的仮名遣いであって現代文法。意識的に口語調を用いたため、こういう折衷の組合わせを採用したのだろう。攫われるほどの子ではないというのは自分の子に対する謙遜だ。学校という現場にいるとだんだん自分の子に対する謙遜が減ってきているのを実感する。自分の子の利益だけを要求するモンスターペアレントと呼ばれる親たちは年々増えてきている。自分のこと身内のことはどんなに謙遜してもいい気がする。愚生、愚息、愚妻といって、ああそうですか愚かな方なんですねと思う人はいない。むしろ逆の印象もある。この子、きっと優秀な子に違いない。『季別季語辞典』(2002)所載。(今井 聖)


October 14102010

 傷林檎君を抱けない夜は死にたし

                           北大路翼

愛は自分で制御しがたい切迫した感情であるがゆえに、定型をはみ出したフレーズに実感がこもる。二人でいる時に言葉は必要ないだろうが、相手の存在を確かめられない夜に湧きあがる不安と苛立ちがそのまま言葉になった感触がある。一見、七七の短歌的詠嘆にベタな恋愛感情が臆面もなく託されているように思えるが、そう単純でもないだろう。林檎は愛の象徴でもあるが、藤村の初恋とも、降る雪に林檎の香を感じる白秋とも違い、掲句の恋愛にほんのりした甘さや優美さはない。あらかじめ損なわれている「傷林檎」に自分の恋愛を託している。そう思えば恋愛が痛々しさから出発してやがて来る別れを予感しているようで刹那的な言葉が胸にこたえる。『新撰21』(2009)所収。(三宅やよい)




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