阪神敗戦。何も言うまい。これで私の野球シーズンも終わった。(哲




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October 18102010

 芋茎みな捨ててあるなり貸農園

                           吉武靖子

会の貸農園が人気だ。自治体などが貸し出すと、あっという間に借り手が殺到するという。趣味で作物を育てるのは、職業としての農業とは違って楽しいのだろうな。もっとも農家の子供だった私には、趣味といえどもきちんと育てるには、たいへんな作業があることを知っているので、借りる気になったことは一度もない。作者の心持ちは「ああ、もったいない。食べられるのに……。知らないのだろうか」といったところだろう。でも、里芋の葉柄である芋茎(ずいき)は、食べてそんなに美味いものじゃないというのが私の記憶。いまどきの都会人で口に合う人が、そんなにいるとも思えない。だから捨ててしまうのだと私などは思ってしまうが、おそらくかつての食糧難を体験したのであろう作者には、そうは考えられないのである。いずれにしても、畑の片隅に積み上げられた芋茎の姿は汚いし、無惨といえば無惨だ。が、無惨もときには風物詩になるということ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


October 17102010

 波音は岸に集まり秋の風

                           稲田秋央

日の句を読んでいると、これだけあたりまえの言葉だけをつかっても、優れた句はできるものなのだなと、感心してしまいます。「波音」「岸」「秋」「風」という、さんざん句に詠まれてきた単語も、「集まり」という、これも珍しくはない単語によって見事に生き返っています。もしここに、「集まり」以外の単語が入ったとしたら、おそらくこれほど情感の深い句にはならなかったのではないかと思われます。文芸というのは、一語たりともおろそかにはできないものだと、改めて教えられるようです。波の、繰り返し打ち寄せてくる動きが、音さえもこちらに流れついているのだと感じることの美しさ。さらに、岸に集まったものは、静かに手で掬えそうな心持にもなってきます。秋の冷たい風に吹かれながら、てのひらいっぱいに掬った波音を見つめながら、これまでの人生に思いをはせるのは、秋という季節をおいてありえません。『俳句入門三十三講』(2003・講談社)所載。(松下育男)


October 16102010

 虫の夜のコップは水に沈みをり

                           飯田 晴

元の「安野光雅の画集」(1977・講談社)に、「コップへの不可能な接近」(谷川俊太郎)という詩の抜粋が載っている。そこに「それは直立した凹みである」という一行があるのだが、テーブルに置かれた空のコップを見てなるほどと思った。そこに水を注ぐと、あたりまえだけれど水はきちんとコップにおさまり、コップは水を包み守りながら直立し続ける。そんなコップが一日の役目を終え、台所の流しに浸けられている。透明な水がそのうちそとを満たし、力のぬけたコップをいまは水が包んでいるようだ。ひたすらな虫の夜に包まれている作者、夜の厨の風景が虫の音を静かに際立たせている。『たんぽぽ生活』(2010)所収。(今井肖子)




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