当たり前かもしれないけど、twitterにはおしゃべりな人が多い。(哲




2010ソスN10ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 19102010

 アクセル全開秋愁を振り切りぬ

                           能村研三

つもはごく温厚な人がハンドルを握ると、とたんに性格が変貌し大胆になるというタイプがあるらしい。常にないスピード感やひとりだけの空間が心を解放させるのだろう。掲句が荒っぽい運転とは限らないが、どこかいつもとは違う攻めの姿勢を感じさせる。秋の心と書く「愁」が嘆きや悲しみを意味させるのに対し、春の心と書く「惷」には乱れや愚かという意味となる。それぞれの季節に芽生える鬱々とした気分ではあるが、春は軽はずみなあやまちを招くような心を感じさせ、一方、秋の気鬱は全身に覆いかぶさるような憂いを思わせる。常にない向こう見ずなことをしなければ、到底振り切ることなどできない秋愁である。猛スピードで振り切った秋愁のかたまりをバックミラーの片隅に確認したのちは、わずかにスピードをゆるめ軽快な音楽に包まれている作者の姿が浮かぶのだった。〈男には肩の稜線雪来るか〉〈里に降りる熊を促へし稲びかり〉『肩の稜線』(2010)所収。(土肥あき子)


October 18102010

 芋茎みな捨ててあるなり貸農園

                           吉武靖子

会の貸農園が人気だ。自治体などが貸し出すと、あっという間に借り手が殺到するという。趣味で作物を育てるのは、職業としての農業とは違って楽しいのだろうな。もっとも農家の子供だった私には、趣味といえどもきちんと育てるには、たいへんな作業があることを知っているので、借りる気になったことは一度もない。作者の心持ちは「ああ、もったいない。食べられるのに……。知らないのだろうか」といったところだろう。でも、里芋の葉柄である芋茎(ずいき)は、食べてそんなに美味いものじゃないというのが私の記憶。いまどきの都会人で口に合う人が、そんなにいるとも思えない。だから捨ててしまうのだと私などは思ってしまうが、おそらくかつての食糧難を体験したのであろう作者には、そうは考えられないのである。いずれにしても、畑の片隅に積み上げられた芋茎の姿は汚いし、無惨といえば無惨だ。が、無惨もときには風物詩になるということ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


October 17102010

 波音は岸に集まり秋の風

                           稲田秋央

日の句を読んでいると、これだけあたりまえの言葉だけをつかっても、優れた句はできるものなのだなと、感心してしまいます。「波音」「岸」「秋」「風」という、さんざん句に詠まれてきた単語も、「集まり」という、これも珍しくはない単語によって見事に生き返っています。もしここに、「集まり」以外の単語が入ったとしたら、おそらくこれほど情感の深い句にはならなかったのではないかと思われます。文芸というのは、一語たりともおろそかにはできないものだと、改めて教えられるようです。波の、繰り返し打ち寄せてくる動きが、音さえもこちらに流れついているのだと感じることの美しさ。さらに、岸に集まったものは、静かに手で掬えそうな心持にもなってきます。秋の冷たい風に吹かれながら、てのひらいっぱいに掬った波音を見つめながら、これまでの人生に思いをはせるのは、秋という季節をおいてありえません。『俳句入門三十三講』(2003・講談社)所載。(松下育男)




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