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October 21102010

 とうさんの決して沸騰しない水

                           久保田紺

うさんの中にある水って何だろう。とうさんをこう定義しているぐらいだから、かあさんにも、ねえさんの内部にも水はあって、それはぐらぐらと沸騰したり、体内を忙しく駆け巡ったり、身の裡から溢れだしたりするのかもしれない。川柳は前句付から発展した詩型だから、発想の手掛かりとなる題がどこかに隠されているのだろう。その隠されたものを読み手が自分に惹きつけてあれこれと考えをめぐらすのが、句を読み解くことにつながるように思う。俳句は句を味わう、とよく言うが題ならずとも求心力として季語の存在は大きい。鑑賞においても川柳と俳句では違いがある。この句の場合、隠されているのは「かなしみ」や「怒り」といった感情や「死」や「離別」など人生で否応なく遭遇する事件へのとうさんの反応かもしれない。沸騰しないかわりに沈黙の咽喉元へ水はせりあがってきているのだ。同じ17音の韻律ではあるが、川柳は俳句とは違う言葉の働かせ方を見せてくれる。『銀色の楽園』(2008)所収。(三宅やよい)


August 2782015

 キリンでいるキリン閉園時間まで

                           久保田紺

リンや象を檻の前のベンチに座ってぼーっと見ているのが好きだ。檻の内部にいる象やキリンは餌の心配がないとはいえ狭い敷地に押し込められて飼い殺しの身ではある。もう出られないことはわかっていてもキリンはキリン、象は象、の姿で人間の目にさらされる。キリンらしいふるまいを求める人間には付き合いきれない「キリンでいるのは閉園時間までさ」ともぐもぐ口を動かしながら人間を見下ろすキリンの心の声を聞きとっているようだ。キリンを見る人間と見られるキリンの関係に批評が入っている。同時に少し横にずらせば、「医者でいるのは病院にいる時間だけさ」「先生でいるのは学校にいる間だけ」と私たちの日常の比喩になっているようにも思える。「尻尾までおんなじものでできている」「別嬪になれとのりたまかけまくる」日常につかりながらも日常から少し浮き上がって自分も含めた世界の在り方を見る、川柳の視線の置きどころが面白い。『大阪のかたち』(2015)所収。(三宅やよい)


February 1822016

 泣きながらそっと一マスあけはった

                           久保田紺

保田紺さんは大阪の川柳人。四十七歳のときに末期ガンの宣告をうけながらも九年の歳月を生き、数冊の句集をだした。紺さんの「ここからの景色」というエッセイに次の一文がある。「命を限られてからの日々は、確かに辛いものでした。でも決して不幸なことばかりではありません。霧がかかっていた視界は良好となり、好きなものと嫌いなもの。嫌いだと思っていたけど好きなだったもの。必要だと思っていたけれどもそうでなかったもの、そんなものが全部わかるようになりました」句集全体に漂う独特のユーモア、哀愁、やさしさは死への恐怖や不安を乗り越えてのものだった。例えば掲句、泣きながらあけたこの一マスにどれほどの断念があったことか。敬愛してやまない紺さんは闘病やむなく先月亡くなられた。『大阪のかたち』(2015)所収。(三宅やよい)




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