October 242010
老人はそれぞれ違ふ日向もつ
塚原麦生
わたしの家の近所には大きな団地があります。昔からある団地で、月日とともに住んでいる人たちも年をとってきます。休日にバスに乗り込むと、多くの老人が吊革や棒につかまって危なっかしげに立っていることに気づきます。でも、座っているのはさらに年上の老人ばかりです。もうこうなってしまうと、全席がシルバーシートのようなものです。と、ここで気がつくのは、老人という言葉から受け取る印象です。子供のころには、年をとったら穏やかな老年を迎え、みんな平穏な心持になってのんびりと日向ぼっこをしていられるのだろうと無責任に考えていました。でも、もちろんそんなわけはあるはずがないのです。車窓から深く差し込む日差しの中に座っている老人も、あるいはつり革につかまってよろけている老人も、当たり前のことながらそれぞれに固有の人生を持ち、固有の欲にとらわれ続けているわけです。あたる日の暖かさは同じでも、皮膚に感じる暖かさの種類は、老人それぞれに違っているわけです。『俳句入門三十三講』(2003・講談社)所載。(松下育男)
May 262012
身勝手の叔母と薄暑の坂下る
塚原麦生
炎暑や残暑は、やれやれという暑さだけれど、薄暑は、うっすら汗ばむこともあるくらいの初夏の暑さなので、その時の心情によって感じ方が違うのかもしれない。掲出句、身勝手という一語に、困ったもんだなあ、という小さいため息が聞こえてきて、ちょっとうっとおしい汗をかいているのかもと思ったが、ふと友人の叔母上の話を思い出した。彼女と友人の母上は、芸術家肌で自由奔放な妹ときっちりと真面目な姉、という物語になりそうな姉妹。友人が子供の頃、叔母上は近所の腕白坊主の集団の先頭に立ってガキ大将のようだったという。仕事も恋も浮き沈み激しく、家族や親戚にとってはいささか悩みの種だったというが、友人は彼女が大好きで、長い一人暮らしの間も一人暮らしができなくなってからも近くで過ごし、最期を看取った。母親ほど絶対的でない叔母、親子とも他人とも違う距離感の叔母と甥。身勝手な、ではなく、身勝手の、だから少し切れて、この叔母上も愛されているのだろう。そう思うと、心地よい薄暑の風が吹いてくるようだ。「図説大歳時記・夏」(1964・角川書店)所載。(今井肖子)
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