多忙だった十月が終わる。年末にかけてはゆっくり歩きたい。(哲




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October 31102010

 天高し洗濯機の海荒れてゐる

                           日原正彦

者は詩人。透明感のある美しい詩を、これまでに何編も生み出しています。初めてこの詩人の詩に出会ったときには、言葉の尋常でないきらめきに、強い衝撃を受けた記憶があります。ああ、日本の詩でもこれほどに胸をうつものが作品として成立するのだなと思い、それ以来わたしにとっては、詩を作るときの目標にもなっています。たとえば、「訪ねる人」という作品。「君は脱いだ帽子をあおむけにテーブルにおく/するとその紺青の深さに きらきらと/白い雲が浮かんでいたりして…/すると突然それは金魚鉢であったりして/ぼんやりした赤い色彩が/しだいに金魚の命を塑造し始める」(「訪ねる人」より)。ここに全編引用するわけにもいきませんから、このへんでやめておきます。この作者の名を、朝日俳壇で時折に見るようになったのは、いつごろのことだったでしょうか。詩人が句を詠むときにありがちな、鮮やかさに偏ることなく、句を作るときには句のよさを追求してゆくのだという姿勢が見られます。洗濯機は室内ではなく、秋空の見えるベランダにでも置いてあるようです。洗濯機の中を覗く詩人の目が、何を見つめ、この後、句をどのように育て上げようとして行くのか、楽しみではあります。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年10月25日付)所載。(松下育男)


October 30102010

 水に生ふものの最も末枯れる

                           桑田永子

枯(うらがれ)も俳句を始めて知った言葉のひとつだ。いつだったか俳句の中に「葉先」という言葉を使った時「葉の先の方と言いたかったら、葉末、という言い方もありますよ」と言われ、なるほどと思った記憶がある。いっそ枯れきってしまえば、冬日の中に明るさを感じることもあるけれど、この時期の草の、青さを残しつつ枯れ始める様はうらさびしい。以前「水辺の草が一番早く枯れ始める」という意味合いの句を見たような記憶がある。この句も詠んでいる事柄は同じだけれど、最も、という言葉の強さと、末枯れる、という口語のちょっと突き放したような終わり方が、惜しむ間もほとんど無いまま寒くなった今年の秋を思わせる。『遺句集「来し方」その後』(2010)所収。(今井肖子)


October 29102010

 狩の犬魔王の森を出できたる

                           依田明倫

王は仏教でいう天魔か。シューベルトの歌曲の名か。あるいは悪魔の王という字義どおりか。狩が出てくるから歌曲にある洋風の風景が根幹にあるのか。僕など森と聞くだけで日本的な風景とは異質なものを感じる。鎮守の森だってあるのに。日本にふさわしいのは林だろう。森と林では木が一本違う。作者は北海道在住だからこんなスケールの大きな自然が詠めるのだろう。魔王の森のスケールも見てみたいが、地平線も見たことがない。砂漠も見たことがない。いつか見てみたい。「俳句朝日」2003年10月号所載。(今井 聖)




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