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October 31102010

 天高し洗濯機の海荒れてゐる

                           日原正彦

者は詩人。透明感のある美しい詩を、これまでに何編も生み出しています。初めてこの詩人の詩に出会ったときには、言葉の尋常でないきらめきに、強い衝撃を受けた記憶があります。ああ、日本の詩でもこれほどに胸をうつものが作品として成立するのだなと思い、それ以来わたしにとっては、詩を作るときの目標にもなっています。たとえば、「訪ねる人」という作品。「君は脱いだ帽子をあおむけにテーブルにおく/するとその紺青の深さに きらきらと/白い雲が浮かんでいたりして…/すると突然それは金魚鉢であったりして/ぼんやりした赤い色彩が/しだいに金魚の命を塑造し始める」(「訪ねる人」より)。ここに全編引用するわけにもいきませんから、このへんでやめておきます。この作者の名を、朝日俳壇で時折に見るようになったのは、いつごろのことだったでしょうか。詩人が句を詠むときにありがちな、鮮やかさに偏ることなく、句を作るときには句のよさを追求してゆくのだという姿勢が見られます。洗濯機は室内ではなく、秋空の見えるベランダにでも置いてあるようです。洗濯機の中を覗く詩人の目が、何を見つめ、この後、句をどのように育て上げようとして行くのか、楽しみではあります。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年10月25日付)所載。(松下育男)


January 2012016

 てんてまりつけばひだまりひろがりぬ

                           日原正彦

てんてんてんまり てんてまり……、新年の日だまりで女の児たちが楽しそうにまりつきに興じている。そこらへんから新しい年はひろがっていく。てんまり、手まりーーーそれらの遊びは遠い風景になりつつあって、今やむなしい「ひだまり」がひろがるばかりだ。「てまり」と言えば、西条八十作曲の童謡「鞠と殿さま」、あるいは横溝正史の「悪魔の手鞠唄」のようなおどろおどろしいものもある。良寛さまの「こどもらと手まりつきつゝこの里に遊ぶ春日はくれずともよし」などの歌を想起する人もあると思われる。私などがまだ子どものころには、ゴム製のてんまりで女の児たちが遊んで、♪おっかぶせ、と歌ってサッとスカートのなかにまりを器用に隠したりしていたのが、記憶に残っている。今や、てまりは女の児の遊びというよりは、観光みやげとして美しい彩りのまりが各地で売られている。掲出句は昨年末に刊行された句集『てんてまり』(2015)の冒頭に「新年の章」として、「自転車のタイヤの空気去年今年」などとならんで収められており、「新聞、雑誌、テレビなどの「俳壇」欄に入選(特選、秀逸、佳作)したものばかり」(あとがき)が収録されている。「ひだまり」と「ひろがりぬ」のH音の重ねも快い。(八木忠栄)


January 3012016

 縁側におはじき一つ山眠る

                           日原正彦

の句にあるのは遠い記憶の中の穏やかな日差しだ。おはじきは深い海の色に小さく光っている。少しささくれ立った木の温もりを手のひらに感じながらの日向ぼっこは心地よく、見るともなく見ているのは遥かな山の静けさ。読み手の中にもそんな冬日和の景が浮かんでくる。なんとなく捨てないで持っていたおはじきを今、手のひらにひんやりとのせてみた。はじいて遊んだ記憶はさらに遠いが、縁側と共に懐かしい。同じ集中に〈水仙の彼方に光る副都心〉とある。どちらの句も近景と遠景を一句の中に組み合わせて巧みであり、冬日の持つやさしさと鋭さがそれぞれ描き分けられている。(2015)『てんてまり』所収。(今井肖子)




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