今更あっちが痛いこっちが痒いと言ってもはじまらないか。よしっ。(哲




2010ソスN11ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 17112010

 ポケットのなかでつなぐ手酉の市

                           白石冬美

年のことながら、酉の市の頃になると、ああ今年も残りわずかという感慨を覚えずにいられない。今年は11月7日と19日、二の酉まで。酉の市の時季、夜はかなり冷えこんでくるから、コートを着た参詣者は肩をすくめ背を丸めて歩く。恋人同士だろう、若い男女が人混みに押されながら寄り添い、男性のコートのポケットに女性が手を差し入れ、人知れずしっかりと握りあっている。どんな寒風が吹いていても、そこだけは寒さ知らずの熱々の闇。ほほえましい図である。外に出ているほうの手には小さな熊手が握られているのかもしれない。恋人同士なら寒暖に関係なく、ポケットのなかで手をつなぐことはいつでもできるけれど、掲句ではにぎわっている「酉の市」がきいている。二人は参詣したあと、気のきいた店で熱燗でも酌み交わすのかも。酉の市の夜、周辺の街はどの店も客でいっぱいになってしまうから大変だ。浅草では江戸時代中期以降に繁昌しだしたと言われる祭礼だが、もともとは堺市鳳町の大鳥神社が本社。関東では吉原に近かった千束の大鳥神社が中心になっている。久保田万太郎の句に「くもり来て二の酉の夜のあたゝかに」がある。冬美の俳号は茶子。他に「あやまちを重ねてひとり林檎煮る」がある。「かいぶつ句集」第五十号・特別記念号(2009)所載。(八木忠栄)


November 16112010

 初冬や触るる焼きもの手織もの

                           名取里美

ャサリン・サンソムの『LIVING IN TOKYO』は、イギリスの外交官である夫とともに昭和初期に日本に暮らした数年をこまやかな視線で紹介した一冊である。そのなかで、ある日本人の姿として店に飾られている一番高価な着物を、買えるはずもない田舎の女中のような娘があかぎれの手で触れているのを見て驚く。そして「日本では急き立てられることもなく、娘は何時間でも好きなだけ着物に触ったりじっと眺めていることができます」と、誰もが美しいものに触れることのできる喜びを書いている。布の凹凸、土のざらつき、どれも手から伝わる感触が呼び起こすなつかしさがある。わたしたちはそれぞれの秘めたる声に耳を傾けるように手触りを楽しむ。初冬とは、ほんの少し寒さが募る冬の始まり。まだ震えるほどの寒さもなく、たまには小春のあたたかさに恵まれる。しかし、これから厳しい冬に向かっていくことだけは確かなこの時期に、ふと顔を出す人恋しさが「触れる」という動作をさせるのだろう。動物たちが鼻先を互いの毛皮にうずめるように、人間はもっとも敏感な指先になつかしさを求めるのかもしれない。〈産声のすぐやむ山の花あかり〉〈つぎつぎに地球にともる螢の木〉『家』(2010)所収。(土肥あき子)


November 15112010

 均一の古書を漁りて風邪心地

                           遠藤若狭男

んとなく風邪を引いたような感じ。気分のよいものではない。いまの私がちょうどそんな状態にあるので、作者の心持ちがよくわかるような気がする。いつもの元気を欠いているので、古書店の前を通りかかっても、店の奥に入っていく気力がない。どんな店でもどこかで消費者を刺激するようにできているので、ふだんは地味な感じのする古書店ですらも、入るのには実はなかなかに体力を要するものなのだ。身体が弱ると、そのことが実感的によくわかる。だから、作者は店の前の百円か二百円均一のコーナーにぼんやりと目を配っている。べつに掘り出し物を発見しようという意欲も湧いてはこない。もう立ち止まったときから、何も買わないで離れていく自分がいるのだ。それでも一応背表紙くらいは読んでみる。読んでみるが、手に取るところまではいかない。そんな心持ちを書きとめている。なんということもない句だけれど、そのなんということもないところを書くのも、俳句ならではの表現と言えるだろう。『去来』(2010)所収。(清水哲男)




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