November 292010
母すこやか寒の厨に味噌の樽
吉田汀史
間違っているかもしれないが、まだ作者の母親が元気だった頃の回想句だろう。と言うのも、このところ私の母が歩行困難になり、ヘルパーの手を借りて生活している(現在は心不全で入院中)ので、そう思ったわけだ。ふだんは気がつきもしないのだが、専業主婦である母親の健康のバロメーターは、句のように厨(台所)の状態に表れることにいまさらのように気がついたからである。母が使わなくなった台所の様子は、食器や調味料の類いに至るまでの置き場所一つにしても、どことなく違って見える。同じような配置にはなっているが、やはり母とは微妙に物の向きが異なっていたりするので、すぐに他人の手の働いた跡が感じ取れてしまう。作者はおそらくそんな体験を経た後に、味噌の樽一つの置き場所とそのたたずまいの変化の無さが、実は母親の元気な証拠であったことを発見しているのだ。寒中の味噌の樽は、見た目には当然寒々しい。が、この句のそれは、ちっとも寒々しくもないし冷え冷えともしていない。「母すこやか」の魔法が効いているのだ。『季語別 吉田汀史句集』(2010)所載。(清水哲男)
November 282010
子の暗き自画像に会ふ文化祭
藤井健治
文化祭というのは秋の季語でしょうか。この句をわたしは、11月22日の朝日新聞の朝刊で読みました。詩はともかく、句に接することのそれほど多くないわたしの日常で、朝日俳壇は貴重な俳句との接点になっています。藤井さんがこの句を詠んだ時から、それが投句され、さらに選者によって選ばれ、選評とともに朝日俳壇に載るまでには、おそらく何週間かがすでに経っています。ですから、新聞で読む句はいつも、その時のではなく、少し前の季節の風を運んでくれます。今日の句を読んで、ああこの気持ちよくわかるなと感じた人は少なくないでしょう。子供というのは、いつまでも親の見えるところにいるのではないのだということを、実感をもって示してくれています。絵に限らず、文学においても、身内のものが創ったものを目の当たりにすることには、どこかためらいを感じます。そのためらいは、単に恥ずかしさだけのせいではないようです。どこか、自分のある部分が、その創作の暗さとつながっているような、申し訳ないような気持ちにもなるのです。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年11月22日付)所載。(松下育男)
November 272010
猫の目に海の色ある小春かな
及川 貞
引っ越して一年足らず、さすがにもう段ボールはないけれど、捨てられなかった古い本や雑誌がとりあえず棚に積まれている。それを少しずつ片付けていて「アサヒグラフ」(1986年7月増刊号)に遭遇した。女流俳句の世界、という特集で、美しい写真とともに一冊丸ごと女性俳人に埋め尽くされ、読んでいるときりもなく結局片付かない。そのカラーグラビアにあったこの句に惹かれ、後ろの「近影と文学信条」という特集記事を読みますます惹かれた。今ここに書けないのが残念だが、淡々とした語り口に情熱がにじんでいる。句帳を持たず、その時々の句は頭の中にいくつもありそれで十分、とあるが、この句もそんな中のひとつなのか。小さな猫の目の中に広がる海は、作者の心の奥にある郷愁の色を帯びて、さまざまな思いごと今は日差しに包まれている。(今井肖子)
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