阪神カレンダーに11月31日。こんなミスやってるようではなあ。(哲




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November 30112010

 鉄筆をしびれて放す冬の暮

                           能村登四郎

写版の俗称であるガリ版の名は、鉄筆が原紙をこするときにたてる音からきているというが、この名に郷愁を覚える世代も40代以上になるだろうか。鉄筆は謄写版に使用する先端が鉄製のペンである。用紙には薄紙にパラフィンなどが塗ってあるロウ紙を用い、鉄筆で文字を書くと塗料が削られることで、インクが収まる溝ができる。ちょっとした彫刻にも似て、指先にかかる筆圧はおしなべて均等でなければならず、ペンで書く場合とは大きく異る。学校のテストやお知らせ、文集などに活躍したが、コピー機やパソコンという技術にあっという間にその座は奪われた。テスト以外では、生徒を数人呼んで時折手伝わせることもあり、職員室に満ちるかりかりという乾いた音のなかに入ることはほこらしくもあった。子どもにとっては、慣れない文具はどれも新鮮で、間違ったときの修正液のマニキュアのようなボトルを使うとき、なんだかとっても大人になったような気がしたものだ。あっという間に暗くなる冬の日に、先生たちは学生の姿が消えた放課後の運動場を眺めながら、疲れた腕を伸ばすのだろう。鉄筆から生まれた文字は、読みにくい字であれ、きれいな字であれ、どれも先生の匂いがするようなぬくもりがあった。『能村登四郎全句集』(2010)所収。(土肥あき子)


November 29112010

 母すこやか寒の厨に味噌の樽

                           吉田汀史

違っているかもしれないが、まだ作者の母親が元気だった頃の回想句だろう。と言うのも、このところ私の母が歩行困難になり、ヘルパーの手を借りて生活している(現在は心不全で入院中)ので、そう思ったわけだ。ふだんは気がつきもしないのだが、専業主婦である母親の健康のバロメーターは、句のように厨(台所)の状態に表れることにいまさらのように気がついたからである。母が使わなくなった台所の様子は、食器や調味料の類いに至るまでの置き場所一つにしても、どことなく違って見える。同じような配置にはなっているが、やはり母とは微妙に物の向きが異なっていたりするので、すぐに他人の手の働いた跡が感じ取れてしまう。作者はおそらくそんな体験を経た後に、味噌の樽一つの置き場所とそのたたずまいの変化の無さが、実は母親の元気な証拠であったことを発見しているのだ。寒中の味噌の樽は、見た目には当然寒々しい。が、この句のそれは、ちっとも寒々しくもないし冷え冷えともしていない。「母すこやか」の魔法が効いているのだ。『季語別 吉田汀史句集』(2010)所載。(清水哲男)


November 28112010

 子の暗き自画像に会ふ文化祭

                           藤井健治

化祭というのは秋の季語でしょうか。この句をわたしは、11月22日の朝日新聞の朝刊で読みました。詩はともかく、句に接することのそれほど多くないわたしの日常で、朝日俳壇は貴重な俳句との接点になっています。藤井さんがこの句を詠んだ時から、それが投句され、さらに選者によって選ばれ、選評とともに朝日俳壇に載るまでには、おそらく何週間かがすでに経っています。ですから、新聞で読む句はいつも、その時のではなく、少し前の季節の風を運んでくれます。今日の句を読んで、ああこの気持ちよくわかるなと感じた人は少なくないでしょう。子供というのは、いつまでも親の見えるところにいるのではないのだということを、実感をもって示してくれています。絵に限らず、文学においても、身内のものが創ったものを目の当たりにすることには、どこかためらいを感じます。そのためらいは、単に恥ずかしさだけのせいではないようです。どこか、自分のある部分が、その創作の暗さとつながっているような、申し訳ないような気持ちにもなるのです。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年11月22日付)所載。(松下育男)




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