久しぶりにハーモニカを吹いてみた。なんと、息切れがする。(哲




2010ソスN12ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 07122010

 この濠にゐる二百羽の白鳥よ

                           青山 結

とあって、即座に皇居の濠を思ったが、そこは白鳥は野生の渡り鳥ではなく、外苑を管理する団体が飼育しているものだった。個体数も、昭和28年にドイツの動物園から24羽を購入してより、残念ながら増えることなく年々減少。現在ではたったの12羽だという。当然皇居の濠に、白鳥が埋め尽くすほどいるとはおよそ考えられないのに、強く想像をさせるのは、最後の最後に付いている「白鳥よ」に込められた詠嘆に違いない。この詠嘆で、読者は身近な濠を眼前に引き寄せ、まぼろしの白鳥をずらりと配置させるのだ。とはいえ、掲句ははたして実際に白鳥を目の前にしているのだと思う。二百羽という一面の白鳥の存在の迫力と、遠くから渡ってきた大きな白い翼へのねぎらいもまた、「白鳥よ」の持つ呼びかけに反応する。ことほどさように「よ」の一文字で広がる余韻は、情熱的で、想像力をかきたてる。〈ちちははの墓に入りたし白木槿〉〈青大将乳房二つを固くして〉『桐の花』(2010)所収。(土肥あき子)


December 06122010

 老人のかたちになつて水洟かむ

                           八田木枯

者八十代の句。身に沁みるなあ。若い読者からすれば「それがどうしたの」くらいの感想しか浮かばないかもしれない。しかし、老いを自覚した人間にとっては、はっとさせられるような句なのだ。水洟(みずばな)をかんでいるのは、他人ではなく作者当人である。背を丸くして、さほどの勢いもないかみ方である。誰でもそうだろうが、こういう「老人のかたち」はなかなか自覚しにくいものなのだ。周囲の目からはともかく、自分の老いを認めたくない意識も働くので、当人は自分がいかにも老人らしくふるまっていることにはなかなか気づかない。けれども何かの動作の折に、おやっという感じで気づくときが来る。「オレもトシだなあ」と「かたち」として自覚させられる。いったんそういうことに気がつくと、あとはいわば芋づる式に「そういえば…」と、生活のさまざまな場面での老いの「かたち」に気がついていくことになる。最初のうちこそなにがしかの悲哀感も伴うけれど、だんだんその「かたち」を受容し容認し、是認していく。このときに自分はまったき老人になったわけで、若い頃とは異なる所作にもどこか苦笑いのような感情とともに対応できていく。掲句は、そうした老いの機微を捉えたものだ。だから、最近の私などにはことさらに身に沁みるのである。『鏡騒』(2010)所収。(清水哲男)


December 05122010

 我が寝たを首あげて見る寒さかな

                           小西来山

め人には朝おきるのがつらい季節になりました。眠さだけではなく、布団の外の寒さに身をさらすのが、なんとも億劫になるのです。特に月曜の朝に目覚ましが鳴ったときなど、いつもより30分早く会社に行けば仕事がはかどるだろうというつもりでセットした針を、自分で30分遅らせてまた眠ってしまいます。今日の句、眠った自分を、別の自分が外側から見ているという意味でしょうか。どうもそうではないような気がします。ただ首をもちあげて、横になった自分の体が布団の中にきちんとおさまっているかを確認しているだけのようです。「首あげて」の姿が具体的に思い浮かべられて、なんともおかしい句になっています。「我が寝たを」という言い方も、ちょっと無理があるかなという感じがしないでもありませんが、それも句の面白さの中では許されているようです。首をあげて確認したあとは、ありがたくも贅沢な眠りが、布団の中で待っていてくれます。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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