腰が基本。掃除機をかけたり洗濯物を干したりで納得の日々。(哲




2010ソスN12ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 29122010

 師走市値ばかり聞いて歩きけり

                           川口松太郎

の買物はもう済んだと思っても、年が押し詰まるまであれこれと必要なものに気がついたりして慌てることがある。値下がりする大晦日ぎりぎりまであえて待って買う、という買物上手な人もいらっしゃるだろう。だから大晦日の市は捨て値で売られるところから「捨て市」とも呼ばれる。また「師走市」は「歳の市(年の市)」とも呼ばれる。商人にとっては今年最後の予算を達成して正月を迎えよう、という目標があるわけだし、買うほうにしてみれば、似たような年末年始の品を少しでも安く買いたいと、あれこれ目移りしながら店をめぐる。掲句にはそうした気持ちの焦りというよりは、自嘲めいた余裕さえ感じられるではないか。寒気のなかで買い気をあおる懸命の売り声と、ためらいがちながらも真剣にお店を覗いて歩く人々。その雑踏のざわざわとした活況が見えてくるようだ。「値ばかり聞いて」歩いているのは、案外男性かもしれない。私も経験があるけれど、ふだんはあまり買物をしないから、値段というものの相場がよくわからない。つい高いものを買ってしまって家人に文句を言われるという経験は、どちらさまにもありそうだ。まあ、忙しない師走になぜかホッとする俳句である。松太郎には「湯のたぎる音きいてゐる雪夜かな」がある。一茶には「年の市何しに出たと人のいふ」があり、いかにも歳末の風情。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 28122010

 数へ日のどこに床屋を入れようか

                           仁平 勝

え日が12月の何日からかとはっきり表記されている歳時記はないが、どれともなく指折り数えられるほどになった頃という言い回しを使っている。実際には、クリスマスが終わり、焦点が年明けに絞られた26日からの数日に強く感じられる。唱歌の「もういくつ寝ると…」には、子どもらしく新しい年を楽しみに指折り数える様子が歌われているが、こちらは切羽詰まった大人の焦燥感を表す言葉である。正月をさっぱりして迎えようというのは、家の片付けなどとともに姿かたちにもいえること。とはいえ、慌ただしく迫り来る年末に、自分の身を振り返ることはどんどん後回しになっていく。大晦日の湯に浸かりながら「あっ爪を切ってなかった」などと最後の最後になって小さな後悔が生まれたりもする。掲句は、歳末のスケジュールがぎっしりと書き込まれた手帳を前に頭を抱える作者である。晴れの日を迎えるためには、この散髪の二文字をどうにか入れなければならないのだ。〈冬木みなつまらなさうにしてをりぬ〉〈買初のどれも小さきものばかり〉『黄金の街』(2010)所収。(土肥あき子)


December 27122010

 損料の史記を師走の蛍かな

                           宝井其角

角とほぼ同世代の俳人・青木春澄に「いそがしや師走もしらず暮にけり」がある。あまりに忙しくて師走であることにも気づかないうちに暮れてしまったというのだから、ただならぬ忙しさだ。私の知る限り、師走の多忙ぶりを詠んだ句のなかでは、これがナンバー・ワンである。誇張はあるけれど、昔からとにかくこのように師走は忙しいのだ。いや、いまの私のようにそんなに忙しくはなくても、世間の多忙の風に巻き込まれてしまい、やはり慌ただしい気分で過ごしている。ところが掲句では、さすがに拗ね者の作者らしく、この慌ただしい時期に悠然と『史記』など読んでいる。「損料」はいまでも使われている経済用語で「衣服・道具などを借りたとき,使用料として支払う金銭」のことだから、この場合は貸本屋に払った賃貸料だ。忙しい世間をせせら笑うように、金を払ってまで読書しているのである。前書きに「雪窓」とあるから、外は雪だ。それを「外の雪」などとせずに、「師走の蛍」としたところが其角の手柄だろう。「雪」から「蛍」への連想は、むろん例の「蛍雪の功」の故事に依っている。つまり、借りてきた本が冬の窓に蛍を呼び寄せたわけだ。想像してみると、このイメージは実に美しいではないか。これこそ並々ならぬ風流心の産物という気がする。この忙しい時期に、ゆったりとした読書は不可能だとしても、たまにこの句を思い出してみるのは精神衛生上よさそうである。其角自選『五元集』(1747)所収。(清水哲男)




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