ム子句

January 0112011

 新年や人に疲れて人恋ふる

                           梧 六和

けましておめでとうございます。お正月の句を、と思いながら探すうち出会ったこの句の作者は、集まった親戚やひっきりなしに訪れる賀客に疲れているのか、初詣に行った神社か初売りの人混みに疲れているのか。いずれにせよ、年が改まったら一番に会いたい人には会えずにいるのだ。それは友人か、家族か、それとももっと特別な人か。一人で居る時しみじみ思うよりも、たくさんの人に囲まれながら、今傍にいないその人を思う瞬間の方がより強く自分の思いを感じるものだろう。恋われているその人も、同じようにふと作者を思っているのかもしれない、などとあれこれ思いをめぐらせながら読んだ。『図説 俳句大歳時記 新年』(1965・角川書店)所載。(今井肖子)


January 0812011

 子の祈り意外に長き初詣

                           小川龍雄

供の頃の初詣の記憶は定かでない。近所のお稲荷さんにちょこちょこ手を合わせていたことは覚えているが、思い出すのは狐の顔と首に巻かれた赤い布が恐かったことぐらいだ。それはきっと、初詣といっても言われるままに形だけ手を合わせ、わけも分からず頭を下げていたからだろう。お願い事をする、というのは良くも悪くも欲が生まれるということで、成長のひとつといえる。この句の「子」は成人男子、父と二人の初詣か。家族の健康と仕事の事少々、くらいを願って顔を上げた父は、目を閉じてじっと手を合わせている息子の横顔をしばし眺めている。願うというよりは祈るような真剣なその横顔に、一人前の男を感じている父。意外に、という主観的な言葉には、父親としての感慨と同時にいくばくかの照れが感じられてほほえましくもある。同人誌『YUKI』(2010年冬号)所載。(今井肖子)


January 1512011

 折鶴のふつくらと松過ぎにけり

                           峯尾文世

が家では正月七日に松飾りをはずすが、所によってさまざまらしく、ひとくくりに関東と関西で異なるとも言えないようだ。ともあれ、松がとれれば松過ぎ、普段通りの生活に戻るが、年が改まったという新しい心地がしばらく残っている。今年の東京は、寒の入りからぐっと冷えこんで来てこれからが寒さも本番だなと思いながら、この句を読んで久しぶりに鶴を折ってみた。直線で形作られた折鶴に最後に息を吹きこむと背中がふくらんで、その独特の姿が完成する。テーブルにそっとのせると、午後の日差しが折鶴にうすい影を作っている。確かに寒いけれど、小正月が過ぎれば立春まで三週間を切るのだとふと思う。冬至の頃、これからは昼が長くなる一方と少しうれしくなるように、松過ぎには待春の心が芽生えるものなのだなと、折鶴の背中のやわらかな曲線を見つつあらためて感じた。上智句会句集「すはゑ(木偏に若)」(2010年8号)所載。(今井肖子)


January 2212011

 水鳥のいくつも浮かぶカプチーノ

                           彌榮浩樹

瞬、カプチーノのほわっとした泡の上に、鳥たちがのんびり浮かんでいるような気がしてしまう、浮かぶ、で切れるとわかっていても。作者は池を見渡せるティールームで、水に遊ぶ鳥たちを眺めながら、ゆっくりカプチーノを楽しんでいるのだろう。これが、白鳥の、とか、鴛鴦の、などと言われてしまうと、まずそれらの鳥の映像がはっきり浮かぶので、カプチーノの上には浮かばない。いくつも、という言葉も、具体的な鳥だったら逆に、何羽くらいなんだろう、などと考えてしまう。水鳥、という大づかみな表現が、いくつも、という言葉の曖昧さを広がりに変えて、カプチーノの泡とともに句全体から、冬日が漣となっている池の空気を感じさせている。『鶏』(2010)所収。(今井肖子)


January 2912011

 鵜の宿の庭に鵜舟や春を待つ

                           荒川あつし

の宿は川べりにあるのだろうか。春近い日と水の匂いがして、宿の庭、に人の暮らしが見え風景が親しい。宿のたたずまいとそこに静かに置かれた鵜飼舟、作者はもちろんのこと、あたりの草も木々の枝も、川や舟さえ春を待っているように思えてくる。春は空からというけれど本当だなと思うこの頃だが、待春の心持ちのしみてくる句を読みながら、学生の頃岐阜の友人の所へ遊びに行ったとき観た鵜飼を思い出す。そこだけ照らされた鵜がたてる水しぶきと川風の匂いがかすかに記憶の底にあるだけだけれど。そういえばこの時期、鵜飼の鵜はどうしているのかと思ったが、シーズン中は日々働きオフは食べて寝てのんびり過ごしているらしい。鵜はとても賢いというが、もうすこし暖かくなったらそろそろ勘を取り戻すための練習が始まるのだろう。『縁』(1979)所収。(今井肖子)


February 0522011

 鉛筆をまだ走らせず大試験

                           高瀬竟二

試験は、入学試験、卒業試験、進級試験などをいうが、現在は俳句にしか見られない言葉だろう。二月から三月はどうしても、受験や大試験の句に目がいってしまう。この句は、大切な試験なのだからともかく問題を熟読、慌てないでよく考え構想を練ってから書こう、という落ち着いた様子とほどよい緊張感が感じられる。つい、試験監督をしている視点で読むと、走らせず、にやや不安感が見え、試験が始まってしばらく経つのに鉛筆を握りしめたままかたまっている受験生が見えてしまう。でもここは、走らせないのは意志であり、沈思黙考する姿は溜めた力を一気に出して合格することを暗示している、と読みたい。『初鶏』(1998)所収。(今井肖子)


February 1222011

 人の息かからぬ高さ白椿

                           長谷川貴枝

いている様より落ちているのを詠まれることの多い椿。この時期、落ちる、は縁起が悪いからというわけでもないが、高みに凛とある張り詰めた白椿に惹かれた。白という色は、すべての光を集めた太陽光線の色だから、白椿はすべての光線を反射していることになる。そのやわらかな花弁のふくらみや丸みと、降りそそぐ光を早春の空にことごとくはね返す力強さとを合わせ持つ白玉椿。こうしているうちに一輪、枝を離れるかもしれないと見上げながら、その危うさも含め、艶な人の面影が重なって見える。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)


February 1922011

 幻のまぶたにかへる春の闇

                           阿部みどり女

の闇は春の夜の暗さをいうが、残る寒さの中にしんとある闇なのか、仄かに花の香りのする濡れたような闇なのか。早春から晩春、夜の感触は時間を追うごとに、またその時々の心情によって変わる。闇をじっと見つめていると、心の中の面影がふと像を結ぶ。こちらに向かって来るような遠ざかっていくようなその面影を閉じ込めるように、そっとまぶたをとじる。まなうらに広がる闇は、ありし日の姿と共に明るくさえ感じられるだろう。この句は、「二月十二日夫逝く、二句」と前書きがあるうちの一句。その直前に「一月十一日長男逝く」とあり〈遅々と歩す雪解の道の我ありぬ〉〈コート黒く足袋眞白に春浅き〉の二句。相次ぐ悲しみにその境涯を思うが、掲出句の、春の闇、に最も心情がにじむ。今年の二月も半ば過ぎて身の回りに相次ぐ訃報、春の闇に合掌。『笹鳴』(1945)所収。(今井肖子)


February 2622011

 茹で過ぎの菠薐草のやうな日も

                           菱田瞳子

の回りや国内外のさまざまなニュースに、なんとなく沈みがちな気分のまま歳時記や句集などをあれこれ読んでいて『彩 円虹例句集』(2008)でこの句と出会った。そろそろ旬も終わりの菠薐草だが、誰でも一度は茹ですぎてしまったことがあるだろう。確かに、茹ですぎた菠薐草は美味しくなく、食べ物を詠む時は美味しそうに詠むように、と言われる。でも、そうそう、そんな日もあるよなあと頷きながらほっこりしてしまった。後悔先に立たず、くたくたでしょぼしょぼ、アクと言われるシュウ酸はもとより栄養も何もかもすっかり抜けて、濃い緑色がかえって空しい。この例句集、菠薐草の項の最後の一句は〈菠薐草食べてでつかい夢を持て〉(山田弘子)。さほど深刻ではないけれどちょっと残念な一日は終わって、また明日が来る。(今井肖子)


March 0532011

 鶯もちいろを抓みていただきぬ

                           八田木枯

餅、うぐいす餅、うぐいすもち、鶯もち。それぞれ印象がずいぶん違う。餅、より、もち、の方がしっとりとした質感があり、うぐひす、より、鶯、の方が即座にその色と形が見える。色、は、いろ、とした方が、もちのなめらかさを損なわず、抓む、はその字にある「爪」によっていかにも、指でそっとつまむ、という感じがする。そして、食べる、ではなく、いただく。いただきぬ、とやわらかく終わることによって、ほんのりとした甘さが余韻となって残る。漢字か平仮名か、どの言葉を使うか、その選択によって目から受ける印象のみならず一句の余韻も変わる、ということをあらためて感じた。『俳壇』(2011年3月号)所載。(今井肖子)


March 1232011

 春曙なにすべくして目覚めけむ

                           野澤節子

まれてこの方点滴というものをしたことがない、と言ったら、野蛮人ねと言われてしまった。花粉症にもならないし、耳が動くから原始人と言われたこともあるし。確かに頑丈で丈夫が取り柄でここまできたけれど、いつかこのなんということもない日々が幸せだったのだということを、しみじみ思う時が来るんだろうな、とふと思うようになった。この句の作者は、このころ脊椎カリエスで病の床についていたという。この世のあらゆる存在に、何もできず臥せっている自分に、今日も等しく美しい夜明けが訪れ一日が始まる。白くなりゆく空の美しさと向き合いながら神に問いかけるような一句を詠むことで、作者の心は少し平らかになったのではないだろうか。けむ、にこもる心情を思いながら、そんな気がした。『未明音』(1955)所収。(今井肖子)


March 1932011

 ほつとする出逢ひに似たり春の月

                           嶋田一歩

は季節がめぐると共に、その色調や明るさなど印象が変わってゆく。すこし潤んだ春の月は、どこか心許なく見えたり、ふいに寂しくなったり、この句の作者のようにほっと安らぎを覚えたり。見上げる人の心持ちを映しながら、今日も変わらず夜を照らす。晴れていれば円かな月があるはずの今宵、願いと祈りをこめて空を仰ぎたい。『夕焼空』(1985)所収。(今井肖子)


March 2632011

 烈風の辛夷の白を旗じるし

                           殿村莵絲子

しみどりがかったつめたい白が、葉よりも先に吹き出す辛夷。〈立ち並ぶ辛夷の莟行く如し〉(高濱虚子)とあるが、なぜか皆同じ方向に傾いて見えるその莟は、目的地を差しているかのようであり、日差しを集める花は空の青に映える。この時の作者には、きっと自らの運命に立ち向かっていく強い決意があったのだろう。背景を知らなくても、辛夷の眩しさに負けない作者の瞳の輝きが見えてくる。昨日、照明を落とした駅の改札を抜け、24時間営業を止めた店の前を通り、暮れかけた空に白く浮き立つ辛夷の花を仰ぎ帰宅。部屋が薄暗いことにもだんだん慣れ、今までが明るすぎたなあ、と辛夷に残る日の色を思い浮かべた。『樹下』(1976)所収。(今井肖子)


April 0242011

 初花となりて力のゆるみたる

                           成瀬正俊

の時期、ソメイヨシノを見上げて立ち止まること幾たびか。花を待つ気持ちが初花を探している。今にも紅をほどかんとしているたくさんの蕾を間近でじっと見ているとぞわぞわしてくるが、それは黒々とした幹が溜めている大地の力を感じるからかもしれない。初花、初桜は、青空に近い枝先のほころびを逆光の中に見つけることが多い。うすうすと日に透ける二、三輪の花は、まさにほっとゆるんだようにも見える。そしてほどけた瞬間から、花は散るのを待つ静かな存在になる。蕾が持っていた力は一花一花を包みながら、やがて満開の桜に漲っていく。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)


April 0942011

 白樺に吊すぶらんこ濡れやすく

                           田丸千種

供達が風の中思いきりぶらんこを漕ぐ、という図はいかにも春。ぶらんこは、中国の行事が元になって春に分類されているというが、そこには春風が心地よく吹いている。しかしこの句のぶらんこは、静かに白樺林の中にある。木で作られ少し傾いたぶらんこ、夏の間だけ誰かを楽しませるために、そこで一年の大半をぼんやりぶらさがって過ごしている、そんな避暑地の別荘の風景のようにも思える。濡れやすく、という少し主観の入った言葉によってぶらんこが、なんとなく親しく優しい存在になってくる。俳句同人誌「YUKI」(2011年春号)所載。(今井肖子)


April 1642011

 花人にのぞき見られて花に住む

                           藤木和子

週水曜日に花の散り込む目黒川に沿って歩いた時、川に面したマンションの住人だろう、二階のベランダでお花見をしていた。手の届くところに花の枝が伸びていて、その近景と延々と続く桜並木の遠景は素晴らしいに違いなく、うらやましく見上げたのだった。この句の作者のお住まいは、のぞき見られているのだからマンションではないだろう。庭にみごとな桜の木があるのか、桜並木沿いにお住まいなのか、ともかく花時にはたくさんの人がそのお庭や窓を見ながら通り過ぎる。「観る」視線のまま歩く花人は、花以外もついついじっと見てしまうのかもしれない。この句からは、それを楽しむ余裕と、四季折々の自然の中でのゆったりとした暮らしぶりが感じられる。ちなみに、目黒川沿いのフェンスには近くの小学生が詠んだ俳句を書いた短冊がくくりつけてあった。その中に「春の川ピンクできれいいい季節 高松」という一句があり、そういえばいい季節だということを忘れていたな、とあらためて感じている。『ホトトギス新歳時記』(2010・三省堂)所載。(今井肖子)


April 2342011

 春の風邪髪の微熱を梳る

                           淡海うたひ

こうしてキーボードを叩いている指先がひんやりしている。寒暖の差が大きいというか麗らかな日が少ない今年、風邪なのか花粉症なのかわからないと言っている知人も多い。春の風邪は、冬から春へ季節の変わり目に詠まれることが多いが、いずれにしてもいつまでもすっきりしないものだ。子供の頃から、なんとなく熱が出そうと思うと、まずぼんのくぼあたりの髪をひっぱってみる。熱が出る前は、強くひっぱらなくても引きつったような変な痛みが走るのだ。頭から風邪を引く、ということか。髪の毛自体はもちろん微熱を帯びることはないはずだけれど、首から上がうっとおしく霞がかかったような風邪心地が、ゆっくりと梳る手の動きと共に滲み出ている一句である。『危険水位』(2010)所収。(今井肖子)


April 3042011

 この国の未知には触れず春惜む

                           竹下陶子

知という言葉はその時の心持ち如何で、希望にあふれているようにも不安で一杯のようにも感じられる。今、この国の未知、と読むとどうしても後者の気分が勝ちそうだが、この句が詠まれたのは、昭和五十八年。日本海中部地震があった年だが、地震が起きたのは五月二十六日なので、春惜む、より後のこと。まあいつの世でも、安心立命の境地にはなかなか至ることができない。ただ、国の先行きを憂うというより、未知という言葉に可能性を残しながら、さらにそれにはあえて触れることなく、今は春を惜しんでいる作者。このいい季節が、来年もまた巡ってくるようにと、勢いを増す緑の中で願っているのだろう。『竹下陶子句集』(2011)所収。(今井肖子)


May 0752011

 真円の水平線や卯浪寄す

                           竹岡俊一

円の水平線、ということは、視界三百六十度見渡す限りひたすら海、大海原のど真ん中にいるのだろう。また真円は、水平線が描く弧から球体である地球を大きく感じさせ、卯浪は、初夏の風と共に尽きることなく船に向かって寄せている。それを乗り越え乗り越え、船はひたすら海をつっきて進んでいるのだ。この句は「六分儀(ろくぶんぎ)」と題された連作のうちの一句で、作者は海上自衛隊勤務という。六分儀は、天体の高度を計測する航海用の器械とのこと。掲出句の卯浪には、私達が陸から遙か沖に立っているのを眺めているのとは違った力強さがある。〈サングラス艦長席の摩り切れて〉〈登舷礼やや汚れたる白靴も〉サングラス、白靴、これらも同様に日常とは別の表情を見せていて興味深い。「花鳥諷詠」(2011・3月号)所載。(今井肖子)


May 1452011

 守宮出て全身をもて考へる

                           加藤楸邨

、守宮と住んでるんですよ、家族みんなで、先生って呼んでます・・・と知人が言っていたのを、この句を読んで思い出した。そういえば守宮ともしばらく会っていない。守宮は、壁に、窓に、ぺたりとはりついてじっとしている。その様子は、まさに沈思黙考、先生と呼びたくなるのもわかる。イモリの前肢の指が四本なのに対して、守宮の指は五本であることも、ヒトに引きよせて見てしまう理由だろう。守宮の顔をじっと見たことはないなと思い調べると、目が大きく口角がちょっと上がっていてかわいらしく、餌をやって飼っている人もいるらしい。ちょうど出てくる頃だな、と守宮と同居していた古い官舎をなつかしく思い出した。『鳥獣虫魚 歳時記』(2000・朝日新聞社)所載。(今井肖子)


May 2152011

 十薬のつぼみのやうな昔あり

                           遠藤由樹子

庭にどんどん増えるドクダミと刈っても刈っても増え続けるヤブカラシは、子供の頃我が家の庭の二大嫌われものだった。ほんとに臭いね、などと言いながらよく見ることもなかったドクダミを、しげしげと見たのはやはり俳句を始めてから。近づくと、あんなに嫌だった独特の匂いは郷愁を誘い、葉はハートの形で花は真っ白な十字形、蕾はしずくのような姿で眠っている。ほんとうの花は真ん中の黄色い部分で、白いのは萼だというが花言葉は、白い追憶、とロマンティックだ。そんな十薬の群生する蕾を見つめながら、作者もふと郷愁をおぼえたのだろうか。あのしずくの形が、光に見えたか涙に見えたか、作者の胸に去来したものはわからないけれど、つぼみのやうな昔か、昔っていい言葉だな、とあらためて思った。『濾過』(2011)所収。(今井肖子)


May 2852011

 すゞかけもそらもすがしき更衣

                           石田波郷

前目にした時は、空、だった気がするが、平仮名の方がいいなあ、と。いずれにしても調べも音も色彩も気持ちのよい句だ。一昔前は、学校も六月一日に一斉に更衣をしていたので、教室に入ると、制服が紺から白へ一気に明るくなり更衣の実感があった。最近は五月から移行期間をもうけて、暑い人は夏服可、とするので以前ほどの感動はない、合理的ではあるが。この時期、個人的には衣服の入れ替えとは別に、初めて半袖一枚で外出する日、更衣に近い感慨があるように思う。そんな日は、夏が来たなあと実感しつつ、この作者のように、何もかもすがすがしく感じるのだ。『最新俳句歳時記 夏』(1972・文藝春秋)所載。(今井肖子)


June 0462011

 金魚の尾ふはふはと今日振り返る

                           櫻井搏道

はふはしているのは、金魚の尾なのか、それを見ている自分なのか、過ぎてしまった今日一日なのか。水面には、ため息のように泡がひとつまたひとつ。水中には金魚の赤い尾ひれが漂っている。ゆらゆら、ひらひら、でなく、ふはふは。その一語がどこにかかるのか、句がどこで切れているのか、そんなことを考えるより先に、なつかしい夏の夕暮れ時をなんとなく思い出させてくれる。なんとなくといえば、この句は『鳥獣虫魚歳時記』(2000・朝日新聞社)から引いたのだが、以前も同じように別の歳時記を見ていて、同じ作者の句を選び鑑賞させていただいたことがあった。なんとなく惹かれる作家なのだと思う。(今井肖子)


June 1162011

 欠けて行く力を溜めて梅雨満月

                           関根誠子

雨入り前、朝のベランダでうすい下弦の月が新樹の風に消えてゆくのを日ごと眺めていた。色を深める木々の力強さと、どんどん細くなる月。そして朔は先週の二日、今やだいぶふくらんできた月が満ちるのは来週十六日だ。満開の桜も、散る力を溜めているように思えるけれど、梅雨満月もまた自らを削ぎ落としてゆく力を溜めている、と作者には思えたのだろうか。明るい桜に比べ、赤く濡れた梅雨満月の仄暗さはよりいっそう我が身に寄り添い、そんな月と対峙する者は、生きることやこの身が滅びること、その他もろもろの内なる思いと向き合うことになるのだろう。雨がちなこの時期、梅雨満月と出会えるかどうか。『浮力』(2011)所収。(今井肖子)


June 1862011

 紫陽花に置いたる五指の沈みけり

                           川崎展宏

梅雨の年は紫陽花が気の毒なほどちぢれてしまうことがある。雨の多い今年は形よく色もみずみずしく、特に水をたたえたような深い青が際立っている。遠目にはこんもりと球のように見える紫陽花。作者が近づくとちょうど目の高さほどの木に、大ぶりの毬がたくさん揺れている。どこか親しさのあるその毬にそっと触れると、ただ包みこんだだけで、細かな花の隙間に五指が沈む。わずかな驚きと少し濡れたかもしれない指先に残る感触は、目の前の紫陽花をより生き生きと感じさせている。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)


June 2562011

 クーラーのきいて夜空のやうな服

                           飯田 晴

の中の風の道を、朝晩いい風がぬけていたのがぴたりと止んでしまい、まだ六月というのにここにきてさすがに暑い。もともとクーラーなど無かったわけだし、扇風機と水風呂でひと夏乗り切れるのでは、と思っていたが、ここへきてやや弱気になりかけている。そんな自然のものではない冷房、クーラー、を詠んで、詩的で美しいなあ、と思う句にはあまり出会ったことがないが、この句は余韻のある詩であり、美しい。生き返るようなクーラーの涼しさと、黒いドレスの輝き。夜空のような服はきらきらと見る人を惹きつけ、着ている人を引き立て、夜半の夏を涼やかに華やかに彩っている。『たんぽぽ生活』(2010)所収。(今井肖子)




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