Nj句

January 0312011

 子規うさぎ虚子いぬ年や年巡る

                           矢島渚男

を折って数えてみると、ということは、子規と虚子とは七歳違いだ。二人の干支など思ったこともないけれど、こうして並べられてみると面白い。子規の柔軟さはたしかに「うさぎ」を思わせ、虚子の狷介さは「いぬ」に通じるところがあるような気がする。で、子規が年男ならば、今年は何巡目になるのだろうと、誰もがつい数えてみたくなる。これまた、俳句の妙味というものだろう。それぞれの人には干支があり、今年もまたそれぞれに年が巡ってきた。どんな年になるのだろうか。私が小学一年生くらいで干支を覚えたてのころ、家族や知人にそれぞれの干支を聞きまくったことがあった。自分は「とら」、父は「ねずみ」、母は「たつ」と、みな違っていた。で、遊びにきた叔父に聞いてみたら、「哲ちゃんと同じだよ。とらだよ」と答えた。私は覚えていないのだが、そのときとっさに口をとんがらせたらしい。「そんなことないよ。だって、おじさんはもう大人じゃないか。おんなじトシじゃないじゃないか」。後年、よく母が笑いながら話してくれたものだ。「俳句」(2011年1月号)所載。(清水哲男)


January 1012011

 この一匹成人の鯛なりき亡父よ

                           駒走鷹志

人の日が巡ってくるたびに、ポール・ニザンの有名な一行を思い出す。「僕は二十歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」。『アデン・アラビア』を読んだのは二十歳を過ぎてからだったが、いつもこの言葉には共感してきた。実際、二十歳とはつづけてニザンが言ったように、ひでえ年頃である。「一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ。恋愛も思想も家族を失うことも、大人たちの仲間に入ることも」。現代の二十歳が自分の年齢をどう感じているのかは知らないが、掲句の作者はそうした辛さを踏まえた上で、なお冥界の亡父(ちち)に二十歳になった喜びを報告しているのだと思う。存命でともに祝えれば、どんなに嬉しいだろうか。そんな思いが切々と伝わってくる。が、残酷なことを言うようだが、この感情は父が不在だからこそ湧いてくるのであって、もし存命ならば、作者もまたニザンのように家族や世間の祝福などは昂然と拒否したかもしれない。つまり、今日成人式を迎えた若者たちのなかで、最も生きていることの喜びを味わう者は、父との死別などなんらかの欠落を背負った者たちだろう。かつての私のように何の感慨もなくこの日をやり過ごす若者ばかりではないことを、掲句がひりひりと教えてくれた。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


January 1712011

 老人のさすられどほし日向ぼこ

                           大木あまり

ょっと見には、まことに微笑ましい光景だ。昨年は父母のこともあり、介護施設などに行く機会が多かった。秋口くらいから、職員が自力では歩けない年寄りを車椅子に乗せて日向ぼこをさせる図をよく見かけたものだ。サービスの一貫なのだろう。そんなときに実際に老人の背中などをさする場合もあるけれど、職員の多くは物理的にさするというよりも、「言葉でさする」場合が圧倒的に多い。「今日はあったかくて気持ちが良いねえ」などと、職員は元気づけようとして、とにかく慰めや励ましの言葉を連発するのである。掲句の光景も、そんな日向ぼこを詠んでいるのだと思う。しばらく見ていると、たいていの老人は黙りこくったままだ。「うん」でもなければ「ああ」でもなく、無表情である。が、そんなことはおかまい無しに職員は話しかけつづける。見ていて、私はだんだん腹立たしくなってきた。一方的な言葉の「さすり」は、これはもう暴力の行使なのであって、彼ないしは彼女はちっとも喜んではいないじゃないか。「お前の口にチャックをかけろ」と叫びたくなってくる。「さすられどほし」はかえって不愉快なことが、何故わからないのか。根本的にマニュアルが間違っているのだ。さりげないが、掲句はそんな状況を告発しているのだと読んだ。俳誌「星の木」(第6号・2010年12月25日)所載。(清水哲男)


January 2412011

 白き息賑やかに通夜の線路越す

                           岡本 眸

夜からの帰途だろう。寒い夜。数人で連れ立って、おしゃべりしながら見知らぬ町の踏切を越えている。故人への追悼の思いとはべつに、通夜では久しぶりに会う顔も多いので、故人をいわばダシにしながら旧交を温めるという側面もある。では、そのへんで一杯と、作者も含めてちょっぴりはしゃぎ気味の連中の様子がよく捉えられている。小津安二郎の映画にでも出てきそうな光景だが、小津の場合にはこのようなカットは省略して、いきなり酒場などのシーンになるのが常道だった。どちらが良いかは故人と通夜の客との関係にもよるので、一概にどちらとは言えない。が、掲句の「賑やかに」歩いている姿のほうが、私などには好ましく共感できる面がある。なぜなら、この賑やかさによる見かけの陽気さは、かえって人間存在の淋しさを暗に示しているからだ。生き残った者たちが束の間はしゃいでいるだけで、やがてはみな故人と同じ運命をたどることになるのだからである。だから、彼らのはしゃぎぶりは、決して不謹慎ではない。故人の死によって、あらためて生きていることの楽しさを自覚した人たちの至極真っ当なふるまいである。そのへんの機微を、実に的確に表現し得た佳句だと思う。『矢文』(1990)所収。(清水哲男)


January 3112011

 親類の子も大学を落ちてくれ

                           十 四

日は川柳から一句。まず、もう一度掲句に戻って、読後の感想をこころに素直に止めてから以下を読んでいただきたい。この句は北村薫『詩歌の待ち伏せ・上』(2002・文藝春秋)で知った。原句は『番傘川柳一万句集』に収録されているのだそうだ。で、北村さんはこう書き出している。「見た瞬間に、<何て嫌な句だろう>と思いました。自分の子が滑った時のことでしょう。確かに、人にそういう心がないとはいえない。けれど、剥き出しにされては堪らない、と思ったのです」。実は、私も一読そう思いました。読者諸兄姉は、どんなふうに思われたでしょうか。ところが、なのです。この句の解説に曰く。「この『くれ』は命令・願望ではない。連用止めである」。つまり、作者は「落ちてくれ」と願っているのではなくて、親類の子も「落ちてくれた」という意味なのだった。これを読んで、北村さんは「どうして見た瞬間に、感じ取れなかったのでしょう。恥ずかしいし、何より、口惜しい。とにかく、後ろを振り向いて、誰か見ていないか確認したいような気持ちでした」とつづけている。私もまた「あっ」と思い、北村さん同様に、後ろめたい気持ちになってしまった。つくづく、自分の目のいじわるさに嫌気を覚えたのである。読者の皆さんの場合は、如何だったろうか。はじめから「くれ」を連用止めと読んだ人は、そのまっすぐで汚れのない性格を誇って良いと思う。(清水哲男)


February 0722011

 畦道に豆の花咲く別れかな

                           星野 椿

は出会いの季節でもあるが、別れの季節でもある。句の「別れ」がどんな別れだったのかは、知る由もない。おかげで、逆に読者はこの句に自分だけの感情を自由に移入することができる。と言っても、この「別れ」が今生の別れなどという大仰なものでないことは、添えられた「豆の花」のたたずまいから連想できる。可憐な雰囲気を持った花だ。だから青春期の一コマとして読んでもいいし、ちょっとした旅立ちの人への思いとして読んでもいいだろう。いずれにしても、また会える希望のある「別れ」として詠まれている。ただ私くらいの年齢になると、お互いにちょっとした別れのつもりが永遠のそれになったりすることも体験しはじめているので、作者の意図を越えて、句に悲哀感を加味して読むということも起きてくる。このときに「豆の花」の可憐さは少々こたえる。一期一会の象徴のように思えてきてしまう。どんな句に対しても読者の年齢にしたがって、解釈は少しずつ異なるだろう。そんな句の典型かなあと、しばし思ったことである。『金風』(2011)所収。(清水哲男)


February 1422011

 病室の母に小さき雛飾る

                           林まあこ

がつけば、二月も半ば。雛を飾っているお宅も多いだろう。作者の母上は入院中なので、この年は病室に小さなお雛さまを飾ってあげた。娘としての優しい心根はよく出ているが、それだけといえばそれだけの句である。しかし、私たちの日常生活では、それだけのことが、当事者にはそれだけの何倍もの感慨を呼び覚ましてくれることも多いのだ。豆雛だろうか。病室のまことに小さなテーブルの片隅にちょこんと飾られたお雛さまは、他のどんな豪華な雛飾りよりも、母上を喜ばせたことだろう。私事に及ぶが、この一年間ほどは、両親ともに入院している病院に何度も見舞いに通ってきた。通っているうちに気がついたのは、病室というところでは四季の移ろいがほとんど感じられないことだった。一年中室温は同じに保たれているし、窓は不透明なカーテンで覆われており、むろん風なども入ってはこない。外からの音もあまり聞こえない。そんな部屋に、せめてもと花を飾ろうとしたら、禁じられていた。花は生きものだから、雑菌なども一緒に持ち込むことになり、病院にしてみれば大いに迷惑なのである。そんな私の個人的な事情があるので、この句をそれだけの句として突き放す気にはなれないのだった。近々見舞いに行くときには、豆雛を持っていこうと思う。『真珠雲』(2011)所収。(清水哲男)


February 2122011

 老いて母に友殖ゆ父は着膨れて

                           今村俊三

年の父は掲句のとおりであった。異常に寒がりになり、真夏以外はたいてい炬燵に入るほどだった。母は近隣に友だちが何人もいたけれど、元来が社交的ではない父には立ち話をするような人もいなかった。兄弟も昔の友人知己も次々に他界して、年々賀状の数も減っていった。そんな父が唯一楽しみにしていた行事が士官学校時代の同級会で、毎年春には遠い靖国神社まで出かけていった。とはいえメンバーも欠けて近年は四人になり、後の出席者は未亡人が十名ほどだったらしい。一昨年は介護の人を頼んで、車椅子で連れていってもらった。昨年も認知症が進むなかで行きたい様子を見せた。それが困ったことに、真夜中に突然起き上がり「これから出かけるから」と背広に着替えたりして、母を多いに困惑させた。そんなにも行きたいのか。母から相談を受けた私は、これで最後になるかもしれないので、介護の車は予約するようにと答えた。当日、車がやってきたときには、しかし父は眠っていたという。車には帰ってもらい、何日かして見舞いに行くと、出席の約束を破ってしまったことをひどく悔やんでいて、何度も幹事に電話してくれと言う。既に当日、母が詫びの電話を入れていたのだが、そのことを何度言っても納得しない。母の話によると、その幹事役の人も認知症が進んでいて、電話口には出られないということだった。そこで私は嘘をついた。さっき電話してよく謝っておいたからと言うと、やっと少しはほっとしたような顔つきになった。『冬の樫』(1973)所収。(清水哲男)


February 2822011

 風に鳴るビルや春闘亡びゆく

                           水上孤城

闘の季節だ。と言っても、いまの若い人にはピンと来ないだろう。賃金の引上げや労働時間の短縮などといった労働条件の改善を要求する労働運動である。経済が右肩上がりの時代には、大手企業でなくとも、会社の壁には組合のビラが貼られ、社員は闘争中を示す腕章を巻いて仕事をしていたものだった。労使双方ともに春闘をごく当たり前のこととして受け入れ、交渉のテーブルについていた。振り返ってみれば、春闘にはどこかお祭り感覚も含まれていた。私が体験した例では、組合の賃上げ要求額に会社側が更に上乗せして回答してきた春もあり、組合の役員だった私は赤っ恥をかかされることになったのだった。しかし、不景気が進行するにつれて、闘争自体を見直さざるを得なくなり、賃上げもボーナスも無しという会社も増えてきて、掲句のように寒々とした感覚に支配されるようになってしまった。春闘そのものが亡びつつあり、そのうちには死語になりそうである。いまや若者は、正社員として就職できるだけで良しとしなければならない時代だ。こんな時代になろうとは…。春先の風は冷たく、春ゆえに余計に冷たさが身にしみる。『水の歌』(2011)所収。(清水哲男)


March 0732011

 過ぎ去つてみれば月日のあたたかし

                           山田弘子

来「あたたか」は春の季語だが、掲句の場合は明らかに違う。強いて春に結びつけるならば「心理的な春」を詠んでいるのだからだ。ただこのことが理屈ではわかっても、実感として染みこんでくるのには、読者の側にもある程度の年輪が必要だ。若年では、とうてい実感できない境地が述べられている。詩人の永瀬清子に『すぎ去ればすべてなつかしい日々』というエッセイ集があって、昔手にしたときには、なんと陳腐なタイトルだろうと思ったものだが、本棚の背表紙を見るたびに、加齢とともにだんだんその思いは薄らいでいった。父が逝ってからまだ三週間ほどしか経っていないけれど、父とのいろいろなことが思い出され、こっぴどく叱られたことも含めて、それらの月日は不思議に「あたたか」いものとして浮かび上がってくる。そして同時に、自分を含めた人間の一過性の命にいとおしさが湧いてくる。それなりの年齢に達したことが自覚され切なくもあるが、春愁に傾いていく心は心のままに遊ばせておくことにしよう。いまさらあがいてみたって、何もはじまりはしないと思うから。『彩 円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


March 1432011

 たんぽぽや避難テントに靴そろえ

                           渡辺夏紀

作「地震百句」のうち。この句は阪神淡路大震災のとき(1995)のものだ。だいぶ以前に「きっこのブログ」で紹介されていたのを覚えていた(むろん、表記などはいま再確認した)。かつての空襲の焼け跡でもそうだったように、まだ片づいていない瓦礫の隙間から生えて咲く「たんぽぽ」は、つくづく強い花だと感心する。一見可憐とも思える花が、まことに強靭な生命力を持っているのことに勇気づけられもする。そんな花の傍らに、テントに避難している人の靴がきちんと揃えられていた。テントのなかの人の様子などはわからないけれど、どんなときにも礼節を忘れない靴の主の人柄がじわりと伝わってくる。うっかり見過ごしてしまうような小さな情景でしかないけれど、作者のおかれていたシチュエーションを想像すると、逆にこのような情景こそが大きく目に入ってくるのかもしれない。いや、きっとそうなのだと思う。この春の東北のたんぽぽはまだ咲いていないだろうが、もうしばらくすると、花も咲けば鳥も歌い出す。被災地のみなさんの、せめてもの慰めになってくれればと祈っている。百句すべてを読みたい方は、こちらからどうぞ。http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2007/01/post_b0f9.html(清水哲男)


March 2132011

 雨寒し春分の日を暮れてまで

                           篠田悌二郎

るで今日という日に詠まれたような句だ。実際、昨日の天気予報によれば、今日は全国的に雨模様である。句では朝から春雨と呼ぶのがはばかられるような冷たい雨が降り、暮れてもなお降り続いている。晴れていれば、少しくらい寒くても「春分の日」と思うだけで心和むところだが、雨降りだと逆に「春分の日」であることが恨めしくさえ思えてくる。寒さが、ひとしお身にしみる。ましてや今年は地震津波による大災害のあとだけに、いっそう暗く寂しい思いに沈み込む人は多いだろう。祝日法では「春分の日」は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ことを趣旨としているが、今年はすべての自然を素直に「たたえる」気にもなれない。週末あたりには桜が咲きはじめる地方もあるようだが、花見どころではない人たちのことを思うと、うかれ気分にはなれそうもない。いま全国でこの句を目にしているみなさんも、おそらく同じ気持ちでおられるだろう。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


March 2832011

 列島をかじる鮫たち桜咲く

                           坪内稔典

いぶ前にはじめてこの句を読んだとき、一コマ漫画みたいだなと思った。真ん中に日本地図があって、周囲の海から獰猛な目つきの鮫たちが身を乗り出すようにして、容赦なくガリガリと列島をかじっている。地図の上では、そんなこととは露知らぬ人たちが暢気に開花したばかりの花に浮き立っている図だ。みんなニコニコと上機嫌である。といって、句はそんな人間の営みを揶揄しているのでもなく、批評しているわけでもない。ただ、人間とはそうしたものさと言っているのだと思う。どこか滑稽でもあり、同時に切なくもなる。そして、再びいまのような状況の中で読んでみると、この句の味わいはより鋭く心に刻まれるようだ。日本中に善意の押し売りが蔓延し、「がんばろう日本」などという空疎なスローガンが飛び交うなかで、この句のリアリティが増してくる事態を、どう考えればよいのか。テレビのCMで頻繁に流れてくる金子みすゞの「みんな良い人」みたいな詩よりも、こういうときにこそ、せめてこういう句を流せるようなタフな国になってほしいものだと思う。『百年の家』(1995)所収。(清水哲男)


April 0442011

 何と世に桜もさかず下戸ならば

                           井原西鶴

読、三読しても、意味がよくわからない。これは読者が悪いのではなく、作者の罪である。西鶴独特の乱暴な詠みぶりと言って良い。もっとも西鶴に言わせれば、わからないのは古典の教養がないせいだと憫笑されるかもしれないが…。どうやらこの句、伊勢物語に出てくる有名な歌「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」を踏まえているらしい。これを西鶴はもう一ひねりして、いまの世の中、桜も咲くことなく、酒の飲めない身であったなら、どんなに良いことかと詠んでいる。何故なのか。この年の正月に出された「衣裳法度」なる政令によって、とにかく庶民は派手な衣装を「自粛せよ」ということになり、女性たちの楽しみである花小袖を着るなどはもってのほか、花の下でのどんちゃん騒ぎも自粛させられてしまった。これに大いに不満を覚えた西鶴は、この句を詠んで為政者にあてこすったというわけである。と、意味がわかれば、今日このごろの東京都知事への不満としても通用しそうだけれど、なんだかなあ、句が下手すぎてせっかくの憤りも空回りしているのが残念だ。『好色旅日記』(貞享4年)所収。(清水哲男)


April 1142011

 霾天や喪の列長き安部医院

                           福田甲子雄

く俳句に親しんでいる人ならともかく、「霾」という漢字を読める人は少ないだろう。「ばい」と読み(訓読みでは「つちふる」)、句では気象用語でいう「黄砂」のことだ。一般的には黄砂に限らず、広く火山灰なども含めて言うようである。小さな町の名士の葬儀だろう。人望のあったお医者さんらしく、医院兼自宅で行われている葬儀には長い喪の列がつづいている。みんな、一度は故人の診察を受けたことのある人々である。空は折りからの黄砂のせいでどんよりと黄色っぽくなっており、あたり全体にも透き通った感じはない。どことなく黄ばんだ古い写真を思わせる光景である。このときの黄砂は偶然の現象だが、このどんよりした空間から感じられるのは、安部医院の歴史の古さであり、ひいてはこの医院にまつわるときどきの人々が織りなしてきた哀楽のあれこれだ。「霾」という季語を配したことによって、句は時間と空間の絶妙な広がりを持つことになった。作者の手柄は、ここに尽きる。『白根山麓』(1982)所収。(清水哲男)


April 1842011

 茅花抜く遠きひかりの中にいて

                           早川三千代

かしい情景だ。子供の頃、よく茅花(つばな)を抜いて食べていた。それも、片手に握れるだけたくさん抜こうと、要するに風流心のかけらもなく、食い気一本で春の野を這えずりまわったものだった。茅花はチガヤの花のことだが、若い花穂は綿のようにやわらかくて、少し甘い味がする。この句の作者が抜いているのは、もう少し成長してからのものだろう。むろん食い気からなどではなくて、その美しい銀白色の花を愛でるためである。おだやかな春の日差しをあびながら、一本か二本くらいをすっと抜いてみている。そしてその日差しは、実は遠い過去のものである。「遠きひかり」のなかでは、作者の姿がシルエットのように浮かび上がっており、もはや夢とも現とも分かちがたい情景だ。類句はありそうだが、いかにも俳句らしい詠みぶりの心休まる一句だと思った。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


April 2542011

 東京の石神井恋し柳の芽

                           清水淑子

春の句だ。石神井(しゃくじい・東京都練馬区)には、若い頃にしばらく住んでいたことがある。作者もそうだったのだろろう。昔もいまも、殺風景としか言いようの無い町だ。町の中心がどこなのか判然としないし、象徴的な建築物も無い。ただ漫然と住宅地が展開している町のなかで、唯一の名所と言えば石神井公園である。園内には石神井池・三宝寺池があり、井の頭池・善福寺池と並び武蔵野三大湧水池として知られている。柳の木も池畔に群生していて、芽吹きから新緑の頃の情景は文句なしに美しい。もはや遠くの地に去った作者は、近傍の芽吹きを目にして、不意に若き日の石神井公園を思い出し、ふるいつきたいような懐かしさを覚えている。何の技巧もない句だけれど、それがかえって読者にも作者の心情を直截に伝える効果をあげている。「恋し」という言葉が嫌みなく使われている。また、対象が石神井の名も無い柳だからこそ生きてくる句であり、これがたとえば有名な銀座の柳だったらこうは詠めない。『炎環 新季語選』(2003・紅書房)所載。(清水哲男)


May 0252011

 新品の島だ若葉を盛り上げて

                           大住日呂姿

放しの新緑賛歌。気持ちの良い五月の風も吹いている。しかし、この島にも目には見えない死の灰が……。などと、作者の意図を越えた野暮は言うまい。こういう句、作ろうとしてもなかなか作れない。けっこう難しいのだろうと思う。ところで「新品」という言葉だが、昔に比べるとすっかりインパクトが弱くなってきたような気がする。使うことも、あまりなくなった。なにしろいまはどこを見回しても「新品」だらけだからであり、ことさらにそう言うべき対象が少なくなっているからである。私が子供だったころには、「新品」というだけで何かまぶしいような晴れがましいような感じがあった。着るものなどはとくにそうで、学校に「新品」の服や帽子で行こうものなら、何人もの友達から「おはつ(初)っ」と背中をどやされたものだった。それが嫌さに、帽子などはわざわざツバを折り泥土に踏んづけてまで古く見せようとしたりしてたっけ。いまでは、そんなことは起こりようもないだろう。まさに隔世の感あり、である。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男)


May 0952011

 父祖の地の青き嵐も売り渡す

                           関根誠子

情があって、先祖代々伝わってきた父祖の地を売却した。青葉若葉の季節で、折りから気持ちの良い風も吹いている。私にこういう経験はないけれど、土地を売却するのはなかなかに勇気のいることだろう。もう不要だからとは思っても、いざとなると愛着がいっそう増してくるからだ。父祖の土地を売るとは、単に地面を売ることではない。地面とともにそこに染みついた家の歴史や環境までをまるごと手放すことだからだ。できればこの「青い嵐」くらいはとっておきたい気持ちだけれど、むろんそうは行かない。だから、この「青い嵐も」の「も」という表現には、決心の強さといささかの逡巡の気持ちが入り交じっている。表面的にはサバサバしている感じの句だが、この「も」が作者の微妙に揺れる心持ちを表していると読んだ。『浮力』(2011)所収。(清水哲男)


May 1652011

 あいつとは先生のこと青き梅

                           林 宣子

女期の思い出だろう。禁断の実というのはオーバーだが、青い梅は腹痛を引き起こすことがあるので、たいていの子は親から食べることを禁じられていた。だが、そう言われればなおさら食べたくなるのが子供というもの。これから実ってくる木苺などに比べれば、およそ美味とは遠かったけれど、よく口にした。学校からの帰り道、幼かった作者は友だちとその青い梅を噛りながら道草をしている。いっぱしの悪ガキを気取って、先生のうわさ話や悪口に興じているのだ。先生を「あいつ」呼ばわりできるのも、こんなときくらいである。振り返れば、なんと未熟なおのれだったろうと、恥ずかしくもなってくる。と同時に、何も知らなかったあの頃のこと、いっしょに学校に通った仲良したちのことが懐かしい。一生のうちで、あの頃がいちばん良かったような気もしてくる。今年も、庭の梅がたくさんの実をつけた。みんな、どうしてるかなあ、先生もお元気でおられるだろうか。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


May 2352011

 夕わけて竹の皮散る酒の中

                           清水基吉

は静かに飲むべかりけり。日本酒が飲めない私でも、こういう句を読むと、しみじみとそんな気がしてくる。薄暮の庭でも眺めながら、ひとり静かに飲んでいるのだろう。実際に竹が見えているのかどうかはわからない。見えていないとすれば、竹が皮を脱ぐときにはかすかな音がするので、それとわかるのだ。よほど静かな場所でないと聞こえないから、音が聞こえていると解したほうが、より情趣が濃くなる。夕暮れの淡い光のなかで時折はらりと竹の皮が散るさまは、それだけでも作者の孤独感を写し出しているように思われるが、散った皮がはらりはらりと「酒の中」へ、つまり少し酔った状態のなかへと散りかかるというのだから、寂しくも陶然とした作者の心持ちが表されている。孤独の愉しさ……。酒飲みのロマンチシズムもここに極まった、そんなおもむきのある句だ。『俳句歳時記・夏の部』(1955・角川書店)所載。(清水哲男)


May 3052011

 愚かゆえ梅雨どしゃ降りを酒買いに

                           今江立矢

雨の句には、当たり前だが鬱陶しいものが多い。この句では、ご当人はさぞかし鬱陶しいことだろうが、読者にはむしろ明るく感じられる。ドジな人だなあと、可笑しくなってくるからである。酒くらい降ってない日に前もって買っておけばよいのに、それを選りに選ってどしゃ降りの中を買いに行くとはね。でも、そんな思いをしてまで買いに行くのが酒飲みというものだ。よほど今夜は飲むのをやめようかと何度も逡巡したけれど、結局は辛抱たまらずの外出なのだろう。降りしきる雨のなか、ズボンの裾を濡らしながら、おのれの愚かさを自嘲している。「愚かゆえ」には間違いないけれど、この愚かさは事情や場面が違えば、実はまた読者のそれでもあるだろう。だから、読者はこの句の作者に愛すべき人間像を見いだして、微笑することができるのである。まことに俳句とは「思い当たりの文芸」である。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


June 0662011

 草の雨葵祭と過ぎてゆき

                           清水 昶

が詩をふっつりと書かなくなり、俳句に熱中しはじめてから十数年は経っただろうか。最近はその俳句もほとんど書かなくなっていたが、ひところは自分の掲示板に「俳句航海日誌」と称して、盛んに載せていた。昶俳句の特徴はいわば唯我独尊流で、読者にわかろうがわかるまいがオカマイなしで、ひたすら昶ワールドを提出することだけに執していた。総じて道具立てがごたごたしており、およそ省略的手法とは無縁であった。そんな句のなかにあって、掲句は普通に俳句になっていて、その意味では珍しい。古風な抒情の世界でもあるけれど、かつて京都に暮らした実感がよくこめられてある。梅雨期はとくにそうだが、京都の雨はまさに「草の雨」と言うに似つかわしい。そのか細い雨が葵祭の行列が過ぎてゆくように、いつしか草の葉に露を残して去っていってしまう。その寂しいようないとおしいような作者の思いは、また読者のそれでもあるだろう。この句は2001年5月30日付の掲示板に書かれたものだ。それからぴったり十年後の当日に、昶はふっつりと世を去っていった。単なる偶然でしかないけれど、兄としてはこの偶然までもが心に沁みる。(清水哲男)


June 1362011

 じやがいもの咲いて讀本文字大き

                           山口昭男

者は昭和三十年生まれ。したがって戦前の教科書である「讀本」を、実際に教室で勉強したわけではない。資料調べなどのために、図書館ででも閲覧したのだろうか。書かれているように、戦前の初等科の國語讀本は文字が大きく、「ハナ ハト マメ マス」などと印刷されていた。ちなみに、私が習った国民学校一年生の讀本は「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」ではじまっていた。ずいぶん大きな文字だったんだな。と作者は感じ入っているうちに、だんだん往時の子供たちがそれを声をだして読んでいる光景に思いが至り、なんだか自分がその子たちのひとりになったような気がしてきた。折りから、窓外は馬鈴薯の花の季節だ。薄紫の花々が遠くに霞むように咲いており、元気に讀本を読む自分の姿が懐かしく思い出されてくるようである。実際に体験したこともない世界をこのように懐かしく思うことは、誰にでも起きることだろう。文字の力、文学の力とは、こういうものである。『讀本』(2011)所収。(清水哲男)


June 2062011

 天井扇ゆっくりリリー・マルレーン

                           花谷 清

本の情景ではないだろう。「リリー・マルレーン」は、もう七十年ほども前のドイツのヒット曲。兵営の門の前にある街灯の下で、恋人に逢いたいという兵士の気持ちがこめられた歌だ。これを第二次世界大戦の欧州戦線でドイツ軍が謀略放送で毎日定期的に流したところ、相手側のイギリス軍兵士にも大きな人気を呼び、あわてた英軍司令部が聞くことを禁じたというエピソードが残っている。作者はこれを、ヨーロッパのどこかの古びたレストランのような店で耳にしたのだろう。昔の若き兵士たちの純情をいやが上にも盛り上げる甘やかでどこか寂しいメロディーが、天井でゆっくり回っている扇風機の無機的な回転音とないまぜになったとき、心に浮かんでくるのは戦争の限りない空しさであろうか。私も若いときに、この歌をミュンヘンの古いレストランで楽士に弾いてもらったことがある。つわものどもの夢の歌。思いはやはり戦争の無情であり、無常であった。この曲を聴きたい方は、ここをクリックしてください。1939年版とあるので、おそらくこれがオリジナル曲でしょう。『森は聖堂』(2011)所収。(清水哲男)


June 2762011

 若楓おほぞら死者に開きけり

                           奥坂まや

(かえで)は紅葉も美しいが、青葉の輝きも見事だ。歳時記で「若楓」と、独立した季語として立てられているのもうなずける。この句のシチュエーションはいろいろに想像できるが、私は納骨の情景を思い浮かべた。普通の墓参りよりも少々厳粛な気分で親族や関係者が集まり、服装も黒っぽい。上天気なのだろう。折りからの初夏の風にあおられて、それまで墓をおおっていた楓の影が払われ、ぱあっと日が降り注いでくる。思わず見上げた目には、真っ青な「おほぞら」が……。そこでいささか鬱屈していた作者は、一瞬救われたような気持ちになったのだろうが、その気持ちを自分のそれだけにとどめず、埋葬される死者と共有しているところが素晴らしい。いや、楓はむしろ死者のためにこそ大空を開いてくれたのだと詠んだ作者の、大きな包容力を伴った情景の捉え方は、読者をもまた癒してくれる。単なるスケッチを超えた佳句だと思った。『妣(はは)の国』(2011)所収。(清水哲男)




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